友だち便で、見たこともないお豆さんが届いた。
「赤豆(あかまめ)」っていうらしい。
まだサヤに入ったままの状態で届いて、それを「パカッ」と剥くところから始まった。
サヤを開くと、「真綿」みたいにフワフワの白い繊維に包まれてお豆さんが並んでいた。
初めてお目にかかるお豆さんだから、扱い方がまったくわからない。
送ってくれた友だちに、夕方、ごはん作りに忙しい時間だろうと思いつつ、受け取りのご報告を兼ねて「どうやって料理したらええかな?」とLINEで質問したら、それはそれは丁寧に、いろいろ説明してくれた。
そういえば、自分がまだ小学生の頃は、八百屋さんでもお肉屋さんでも、お魚屋さんでも、お店のひとから「今日はコレがおすすめやで」と言ってもらえたし、「これはこうやって料理するのがおススメやで」という説明を直接聞きながら買ったもんだよな。それをちょっとずつ自分のなかに取り込んで、台所しごとが好きになっていった気がする。懐かしいな、この感じ。
そして、やりとりのなかであらためて思ったのだけど、それこそお豆さんなんか、「サヤをパカっと開けてみないと、出来不出来がわからない」ってことだし、なんとも楽しみなようで、緊張の連続だろうな、と思った。スイカとか、「ポンポン」と叩いた音でわかるひとにはわかるとか言われているけど、それでも、包丁を入れてみないと最後の最後はわからない。安定した結果が得られるかどうかわからない、むしろいつもおいしい野菜をいただけているっていうのは、ミラクルなんだよなぁとしみじみ思った。
そういう意味で、少しでも「当たり外れ」がないように、計算できるように、遺伝子組み換えで「絶対甘い」とか「カタチがきれい」とかいうことの確実性を求める動きもあるのかもな・・・と思ったりした。安上がりに確実な品質を確保するってことか。もちろん、わたしはその「確実性」は望まないけど、「不確実性」を含めて向き合っていくことは並大抵ではないとも思った。
他にもいろんなことをキャッチボールして、「豆ごはんにしたらお米が紅く染まってきれいだよ」とか教わったりもしたのだけど、結局、「甘い煮豆」にすることを選んだ。
初めての「赤豆」で、初めての「煮豆」に挑戦。
結果、
ちょっと皮は硬めだけど、でも、おいしい。
おかんからも「うまいこと炊けてます」と合格をもらった。
お豆さんをとおしてたくさん学ばせてもらった。
こんなやりとりも含め、土を耕すひととのつながり、大事にしていきたい。