のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

対峙してる人が同じやから。

昨日弟夫婦とおいしいスペイン料理を囲みながら、相棒ちゃんの話になった。

 

なんであんなに天真爛漫、打たれてもしなやかにびよーーんと立ち直ってくる。何もなかったみたいにあっけらかんとできる。情がある。人としての行儀はよろしいほうだ。怒り甲斐がない。いつも友だちが誰かしら隣にいてくれる。などなど、など。

 

女ふたり暮らしのリアルな笑えないほどの「お恥ずかしいはなし」なども、シラフのくせにどんどんわたしの口からこぼれ出して、弟夫婦を爆笑させた。

 

で、3人でつくづく、しみじみ考えたこと。

 

なんで、◯◯(相棒ちゃん)は「ああ」なのか?そして、そういうところが何故か相棒ちゃんの父親でもなく、母親のわたしでもなく、相棒ちゃんと一緒に暮らしたこともない、「おじさん」であるところの私の弟と似ているのだろうか。いや、これ、ほんとに似てるの。笑っちゃうほど。

 

そしたら弟からパーフェクトな分析結果が発表された。

 

 

「それってな、対峙してる人が同じやからちゃうかな」

 

 

え?

 

え?

 

えーーっと

 

それは、つまり、わたしと頑固一徹おかんのこと、でしょうか?

 

弟にとっては姉と母。

 

相棒ちゃんにとっては母と祖母。

 

そして相棒ちゃんの人生は、この2人と暮らした時間が最も長い。弟も、そういえば父親が家を出て行ってから、この同じ2人との3人暮らしをしてきた。

 

なに、それ、「だからこうなった」ってこと、それ、なに、幸?  不幸? どっち?

 

まぁ、もはや、どっちでもいい。

 

でも、確かに、そんな気がする。

 

納得。

 

生きる智慧として、相棒ちゃんは「ああ」なのだ、そういうこと。

 

いやー、なんか、早く家に帰り着いて、おみやげのスイーツを相棒ちゃんと一緒に食べたくなってきた。

 

ただいま名古屋をすぎたところ。

 

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いい気分。