のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

秋の色を味わいながら。

昨日、仕事の帰り道、空がよく見える場所で車の流れがとまった。ふと窓の外に目をやってびっくり。

(実際はもっともっときれいな秋の夕空だった。)

 

このところ、手芸熱が持続していて、着物の半幅帯がちょうど文庫本の「縦の長さ」に、ぴったりなので、ブックカバーを作ったりしている。

唐桟織という手織りの生地で、手触りも色合いもとてもいい。しかも、秋の夕陽のようで、季節にもぴったり。ちょっとしたことが読書タイムを豊かにしてくれる。

 

もっとかわいいところでは、友だち便で栗を入れてくれていた赤いネット、昔懐かしい、くるくるっと丸めた林檎ちゃん(笑)。

いろんなところに、秋の色。

 

心豊かに。

 

でも、世の中から遠ざからないで、いたい。

 

秋なると、思い出す句。

 

地図の上

朝鮮国にくろぐろと

墨をぬりつつ

秋風を聴く

(石川啄木)

 

よその国を、あるいはこの国に暮らす他者を、踏みつけて平気でいたり、あざ笑ったり、それに同調したり、そのことに無関心でいたり、したくない。

 

栗しごとに心癒される。

友だち便で栗が届きました。

「台風の影響もあって、いつもより出来がよくないかも」とメッセージをくれていたけど、なんのなんの、届いた栗たちはピッカピカで丸っとして元気いっぱいのお姿だった。すぐに「栗しごと」にとりかかるタイミングがなくて、数日冷蔵庫で「ひと休み」してもらっていた。

 

去年は、送ってもらった栗を全部「渋皮煮」にしたのだけど、今年はちょっと違うことをしてみたくて、圧力鍋で「蒸し栗」にした。

 

手順も、調味料も至極シンプル。

 

栗を洗って、ちょっとだけ水に浸けて、栗のお尻の部分からちょこっと皮をむいて、ひたひたのお水とお塩ひとつまみを入れて圧力鍋で3分(ほんとはレシピに5分と書いてあったけど、送ってもらった栗がフレッシュだったのだろう、3分で十分だったのです)。あとは圧力が抜けるまで放置して、皮を剥くだけ。

 

この皮むき、いつもならものすごい重労働なのだけど、蒸した栗の皮はとても柔らかくて剥きやすかったです。

 

先に書いたとおり、蒸し時間を少し長くとりすぎたので、第1弾は実が柔らかくなりすぎて、形が崩れてしまったので「二軍」(お写真左側)。右側の「一軍」はまん丸でホクホクで、べっぴんさん。

 

珈琲にもすごくよく合いました。

 

夕飯はもちろん「栗ご飯」。

 

相棒ちゃんが、ひとくち目で言いましたとさ。

 

「おかあさん、秋が来たなぁ」。

 

 

 

ほんとにね、秋が来た。

 

季節の風や味を届けてくれる友だち便。

 

 

豊かさ、というのは、こういうことなんじゃないかと、いつも思っています。

おかんのカバン作ってみた。

ここ最近、週に1回、平日の仕事帰りにおかんの家に泊まりに行ってる。夕飯はおかんが作っておいてくれて、それを一緒によばれながらいろいろ話して、食後の片付けと床のぞうきんがけをわたしが担当して、お風呂のあとはおかんのベッドの横にお布団敷いてもらってゆっくり寝て、翌朝は栄養満点の朝ごはんとお弁当を作ってもらって、わたしがコーヒーを淹れて、すごくゆったり出勤させてもらってる。お留守番の相棒ちゃんは、気楽な夜を満喫てきるので、いつも喜んで送り出してくれる(笑)。

 

昨日泊まりに行ったとき、おかんが「黒のカバンが欲しいんやけど、なかなかええのが見つからへん」と言ったので、「作ってみよか?」と提案したら大喜びでノッてきた。

 

おかんの布コレクション(おかんも物を大事にしすぎて捨てられないお人)から黒の帯を引っ張り出してきて、「これで作ってほしい」というので、はじめて帯のリメイクでカバンを作ってみた。

 

初めてにしては、まぁまぁうまいこと出来たかな。

 

ここのところ、仕事でいやなことが続いて、切り替えようと思うのにずっと気になって、家にいても悶々としてしまう自分がいやだったのだけど、もの作りに集中していたら、うまい具合に忘れられて、リフレッシュできた。

 

明日早速おかんに届けてこよう。

 

また次のオーダー、くるかもね。

 

 

 

沖縄に、返せ!!

頑固一徹おかんは、身長145センチの小柄ながら、その昔、わたしと弟を自転車の前と後ろに乗せて、さらには雨の日には傘をさして運転していた。でも、「こけそうで恐いな」と思った記憶がなく、もちろん転んだ記憶も、ない。

 

で、さらに、これぞおかんやなぁと思うけど、自衛隊募集のポスターを見つけたら、わざわざ自転車を停めて、ベリベリっっと剥がすことを欠かさなかった。そして、そのときにいつも歌っていた歌があった。

 

『沖縄を返せ』という歌。

 

歌詞は、こうだったと記憶している。

 

固き土を破りて

民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ

我らと我らの祖先が血と汗をもって

守り育てた沖縄よ

我らは叫ぶ 沖縄は 我らの島だ 沖縄は

沖縄を返せ 沖縄を返せ

 

おかんはこの歌を自転車を漕ぐときのかけ声みたいにしていつも歌っていたので、わたしも一緒に歌っていた。前に乗っている弟は憶えてないと、ずっと前に聞いたことがある。

 

沖縄の返還を求める闘いのなかで歌われたものだと思うけど、いまは、最後の「沖縄を返せ 沖縄を返せ」のところ、「沖縄を返せ 沖縄に返せ」と歌っている。

 

沖縄は、アメリカから日本に返すものでなく、沖縄は、沖縄の人びとに返すべきものだと、強く思う。

 

おっちゃんが沖縄の離島で見つかったとき、おかんもわたしも「沖縄でなかったら、おっちゃんは生きてなかったな」と思った。その後も、沖縄でなければ、おっちゃんは暮らせなかったんじゃないかと、沖縄だったから、生きられたんじゃないかと思っていたし、いまも思っている。

 

土地を、命を蹂躙された、そのいたみのなかで、人間を慈しむ、生きることを慈しむことを守り続けてきた(なんて、軽く書くことに大いに躊躇するけど)沖縄の人びとに、沖縄のすべての土地を返してほしい。

 

明日の知事選に、誰を選ぶかは、その一点が唯一にして最大の争点だと思う。

 

 

 

空に届けたい珈琲。

頑固一徹おかんの4人きょうだいの末っ子だった「おっちゃん」。

若くて暮らしが安定していた頃のおっちゃんは、今思えば非常にカッコよかった。

男前、という意味での「カッコいい」ではなく(笑)、

何ていうか、生き方がカッコよかった、気がする。

 

その昔、中学生だった私に、初めて「労働の対価」をくれたのはおっちゃんだった。

 

おっちゃんが経営していたデザイン事務所に「雑用係」として2週間ほど雇ってもらった。どんな仕事をさせてもらったか、詳細は忘れてしまったのだけど、断片的に憶えていることがいくつかある。

 

シルバーのボディに黒い取っ手のついた戸棚というかキャビネット。

その扉に黒でライオンの顔が描かれていた。

なんとも「おとな」な感じがして、何度も開けたり閉めたりした。

 

事務所の外に、缶コーヒーとかジュースの自動販売機を置いていた。

当時流行っていた「当たりが出たらもう1本」の機能を搭載した販売機。

 

おっちゃんは、その販売機の扉を開けて、ジュースやコーヒーを補充しながら、いろいろ教えてくれた。「いつから缶コーヒーを『温』にするか。このタイミングが大事なんや」とか、「『当たり』の出る確率を変動させて、売れ行きを見るのがおもろいんや」とか。そして、自分は缶コーヒーを飲みながら、わたしには「つぶつぶみかん」のジュースを飲ませてくれた。頑固一徹おかんは、「缶ジュースは体に毒や」といって飲ませてくれなかったので、ジュースの缶を真っ逆さままでひっくり返して、みかんのつぶの最後の1つまで飲み干したかった(笑)。

 

で、お仕事の最終日、ちゃんと給料袋に明細を入れて「正式に」お給料をくれた。

 

「のんちゃんは実に機転の利く、いい働き手でした。ご苦労様でした」といって渡された、わたしの初めてのお給料。一番おおきなお札が入っていたのだけ、憶えている。ものすごく誇らしくて、「働く」ということへの大きな憧れの気持ちをプレゼントしてくれた。

 

いとこの中で、そんなことをしてもらえたのは、きっと私だけだったと思う。なんでかわからんけど、わたしはどこかで「特別扱い」してもらっていた気がする。のちに、歳をとったおっちゃんを沖縄に訪ねていっしょにごはんを食べたとき、おっちゃんがポロっと言ったことで、その「特別扱い」の理由がわかった気がした。

 

「あの〇〇ちゃん(頑固一徹おかんのこと)の娘をやってるのんちゃんは、ほんまにご苦労さんやと思う。あんたはエライ(笑)」と言ってくれた。「あの」のなかには、きっといろんな意味がこめられていたと思う。それこそ、親子6人で暮らしていた頃の「姉と弟」の頃から、お互い家族をもった頃、家族から離れておっちゃんが一人で彷徨っていた頃、沖縄で暮らすおっちゃんを大阪からおかんが心配していた頃、その時々におっちゃんがおかんに対して感じたことがギューッと詰まっている気がして、なんか、ありがたくて泣けた。

 

そんなおっちゃんは、缶コーヒーよりも、もちろん「珈琲」が好きだった。最後のほうは、アルコールの「おかげ」で手もだいぶ震えていたけど、それでも、たばこをふかしながら珈琲を飲むときのおっちゃんは、とても「おっちゃんらしい」かんじがした。

 

そのおっちゃんに、とびっきりの珈琲豆が届いたよ。

 

ありがたくて、ありがたくて、封をあけてポロポロ泣きました。

そして今朝、記念の1杯目を、心を込めておっちゃんに淹れました。

 

 

空に届けたい、やさしい珈琲。

 

本当にありがとうございました。

 

 

 

みんなどこかでつながっている。

今朝、おかんとお弁当と新聞の物々交換の待ち合わせをしたとき、おかんのきょうだいの一番上の姉さんの近況を聞いた。認知症が急に進んでいるんだと。


その時期が、わたしが「おっちゃんの居場所」を思い立ったタイミングと重なっていたことに、一瞬、静かに驚いて、そして何となく、すごくストンと納得がいった。


わたし、おばちゃんから託された気がする。


両親のこと、きょうだいのことをいつも気にかけてきたおばちゃん。末っ子の長男の「おっちゃん」のことを、きっとずっと悔やんで詫びていた気がする。


でも、それはもう心配せんでもええよ、と伝えたい。


そんなことを思いながら、夕飯の炊き込みご飯をおっちゃんによそいました。御供えのご飯の器は好きじゃないので、かわいいエッグスタンドに盛り付けています(笑)。


偶然起きているように思うことも、みんなどこかでつながっている。きっと、そう。

知るべきことは、まだあった。

きのう、9月1日は「防災の日」。

その由来のひとつは、1923年9月1日に起きた関東大震災。

10万人を超える死者・行方不明者が出た。

地震や津波、台風、洪水などの自然災害に対する認識を深め、備えや対策を強化するために1960年に制定されたもの。

 

もちろん、そのことを自体を否定はしないのだけど、この国の歴史のなかで、忘れてはいけないことが、ある。

 

大地震の混乱が続くなかで、「朝鮮人が襲ってくる」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマが広がって(広げられて)、近所の普通のおっちゃんたちが「自警団」を組織して、何千人もの朝鮮人を虐殺した、ということ。

 

そのことは、認識していたわたしだけれど、知るべきことは、まだ、あった。

 

福田村事件 森達也 に対する画像結果

 

 

「福田村事件」―――。

森達也監督が、来年の9月1日をめざして、クラウドファンディングで支援を呼びかけ、撮影をスタートさせた映画をとおして、初めて知った事件。

 

デマと誤解で9人殺害…「福田村事件」を映画にしたい 森達也監督がクラウドファンディング:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

朝鮮人への差別と、部落への差別が重なって起きたこの事件を、いまのこの日本で映画にすることの困難さを想像して、そこに立ち向かう森監督をはじめとする制作スタッフの方たち、俳優さんたちの決意と行動に、心から賛同したい。そして、自分にできることを考えたい。

 

「知らなかったこと」の前を「知らなかった」ままで素通りしたくない。

 

クラウドファンディングを知るのが遅くて、すでに目標額に到達して締め切られてしまったのが残念だけど、でも、少しでもこの映画のことを、福田村事件のことを知ってもらうためのアクションは、ちっちゃくても起こせる。

 

歴史は、過ちを繰り返さないために学ぶもの。

過ちを繰り返してはいけないのは、

権力者だけではないと思う。

 

 

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昨日の焼き茄子の文章に、たくさんコメントをありがとうございます。

 

で、早速やってみました。

 

「焼きピーマン」。

焼き上がって表面の薄皮をめくったら、いつものピーマンが、なんとも柔らかくて、甘くて、おいしさ100倍でした。

 

教えてくださってありがとうございます。

ごちそうさまでした!!