ニュースで爆撃の映像が流れるのを見て、相棒ちゃんが言った。
「おかあさん、なんか信じられへんな。こんな映像、現在(いま)、やろ?」
ほんとに、そうだ。
ちっちゃな子どもがインタビューに答えて、ポロポロと涙をこぼしながら恐怖を語っていた。「死にたくない」と言っていた。
どんな理由があったって、こんなふうに子どもが泣かなければならない世界は間違っている。とにかく、こんな状況でいのちが脅かされることは、何とかして終わらせないといけないと思う。
だけど、プーチン大統領のことを「恐ろしい」とか「とんでもない」とか言えるほど、わたしたちは平和のなかに生きているのかな。自由と平等のなかに生きているのかな。
先日の、衆議院での新年度予算採決の一部分の映像です。
この前段の予算審議のなかでも、少数会派や政党の発言機会が奪われて、なんてことだと思っていたけど、この採決の一場面は、ほんとうに、たまらなかった。
冬の冷たい雨が降れば「この寒空の下で、ちゃんと寝る場所がない人はどないしてんのかな」と想像して、コロナの第6波が長引けば「医療や介護の現場のみなさん、大丈夫かな」、「コロナで仕事に行かれへんひとは生活していけるんかな。安心して休まれへんなかで、感染拡大を食い止めることなんてできへんのちゃうかな」と心配して、「そんな人たちのためにこそ、政治は動くべきだ」と主張する大石あきこさんたちを見ていて思う。本当の「やさしさ」ってこういうことなんやな、と。
そして、というか、だけど、というか。
その「やさしさ」が、いまの日本の政治に爪の先ほどもない。そのことを、この採決の一場面を見て、ぞっとするほど実感した。
壇上で声を挙げた大石さんたちに向かって、議場まるごと、まるで地鳴りのような野次というか怒号一色になった。
何回か繰り返して見て、聞いてみたけど、賛同の拍手も「そうだ、そうだ」の声も、わたしには感じられなかった。彼女たちの存在まるごとを否定するような、侮辱するような空気に包まれていた。
こんな場所から、「小さい声」を聴くちからなんて生まれない。こんな場所から、本当に今日の暮らしに困っているたくさんの人たちに届くような政策なんて、生まれない。生まれるはずがない。そう思えてしまう光景だった。
だからこそ、余計に思う。
「やさしさ」を貫く勇気の、凄さ、について。
戦争は、何もないところから、突然には起こらない。
こんなふうに、誰かの声を、数のちからで、集団のちからで圧殺するような光景は、戦争と無関係ではない。
だから、テレビの画面に映るウクライナの子どもたちを憂うのと「別問題」ではなく、わたしは、日本という国のありように抗議したい。
こんな国の、こんな国会のなかで、「やさしさ」を貫こうとする人たちに、心から賛同したいと思います。
追伸
いつも、いろんなすてきなコメントをもらって、ありがとうございます。心のなかではいっぱいお返事書いてるんですけど、なんか、実際の自分の動きが間に合わず、次のブログを書いてしまうことになってスミマセン。でも、間違いなく、どのコメントも、全力でこころでキャッチしています。感謝して、歌ったり、考えたり、仕事したり、ごはんつくったりしています。もうすぐ3月だから、ミモザでリースをお色直ししました。