のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

札束で、私たちの仕事を買い叩かないで。

皆々様、こんにちは。

ひとつ前の記事では「スローライフ」を謳ったわたくしですが、「いまの病院のこと、少し書いて」というお声をコメント欄でいただきまして、うん、確かに、そうかもしれない、と思いましたので、少しだけ、走り書きですけど、書いてみたいと思います。ちゃんと推敲すると、ちょっと二の足を踏んでしまいそうなので、勢いを大事に、書いてみようと思います。

 

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「新型コロナの治療が終わって、もう感染力がない患者さんを、国が示した転院基準に則って、迅速に受け入れたら、転院受け入れ1件(おひとり)あたり〇〇万円」というお達しが数日前にありました。

 

その前から、「民間病院の新型コロナへの協力が足りない」的な指摘が聞こえてきて、「やってられない」気分になっておりました。

 

朝のニュースとか見てると、「あんたら大本営発表か」と言いたくなるようなアナウンサーのコメントが日常的に流されて、「自粛に協力しない飲食店」や「テレワーク(最近は”テレハーフ”とかなんとか、言い始めましたね)を実施しない企業」や、「いくら要請しても言うこと聞かない若者」のことを、「あんたらのせいで、事態が好転しない」と言わんばかりだけど、わたしはずっと違和感を持ちながら仕事をしています。

 

「みんなで思いをひとつにして」・・・って、そういう精神論で乗り切れる状況じゃない。だけど、へこたれるわけにいかないとも思ってる。もちろん、誰も経験したことがない新しいウイルスとの共存だから(たたかい、っていう表現も、わたしは、違うと思ってます。申し訳ないけど、ウイルスに勝とうと思うのが間違い。撲滅なんて、傲慢すぎます)、右も左もわからないという部分はある。そうだとしても、政治として、その困難状況の、どこにどんな手立てをしていくかということは、もう少しまともな議論や挑戦があってもいいと思う。その「まともさ」があれば、そこから発せられる、いろんなメッセージは、もう少し人々の心に届くと思うし、行動を変容させると思う。

 

人々の行動が、変わっていないとすれば、それはなぜなのか。

 

「みんなで思いをひとつにして」と言うならば、政治をやってる人にこそ、その「思い」を想像する、共有する、ひととしての「まともさ」を望みたい。

 

なんかね、いまの政治は、いろんなものを、ひとを、意識的に分断しているように思えてならないのです。たとえば「新型コロナを受け入れる病院」と「受け入れない病院」。受け入れる病院だけが大変なわけではないです。(もちろん、受け入れてくれている病院のスタッフの皆さんには敬意をもっています。それは、ほんとに、いつもいつも、もっています)でも、それぞれに病院の機能があって、たとえばわたしが働いている病院は、地域住民が医療で困ったときに一番身近な相談相手として寄り添えるように、介護と医療が連携して、とりわけ高齢の患者さんやそのご家族への支援を手厚く行っています。そういう機能の病院が、〇〇万円もらえるからといって、いきなり新型コロナの治療が終わったばっかりの患者さんを、検査体制も整わないなかでどんどん受け入れられるかというと、それは難しいです。病室の作りひとつ、備えている設備ひとつとっても、いま現在入院している患者さんに提供する医療と同時進行で、そんな簡単にできることではないのです。でも、この状況に平気でいるわけでももちろんありません。だからこそ、スタッフも含め、日々葛藤しています。

 

言葉はとても烈しいかもしれませんが、まるで札束で、私たちの仕事を買い叩くような発想は、本当に腹立たしい。大事なのは、そこだけなのだろうか。もちろん、病院の経営状態は深刻です。できることなら、何とかならないものかとも思う。だけど、やっぱりそんなに簡単なことではないと言いたい。

 

私たちは、私たちにできることを、可能な限り追求して、真剣にがんばっていきます。それは、この大波のなかでは、わずかな水泡みたいなもんかもしれないけど、でも、ちゃんとやっていきます。

 

ならば、いま、政治は何をすべきなのか。

「悪者探し」ではなく、ほんとにやるべきことを、真剣にやってほしい。

 

そんな気持ちです。