のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

もらったバトン~おかんの誕生日5.18に寄せて~

こんばんは。

(今日の記事は、ものすごく長文になりますことを、さきにお伝えしておきますね) 

今日は、わが頑固一徹おかんの80歳の誕生日です。

 

「おばあちゃんは100まで生きる」といのが、うちの相棒(頑固一徹の孫娘)と喋るときのおかんの口癖です。最近でこそ、「ちょっと自信がない」と言ったりすることがありますが、それでも、何となく、10年後もおんなじことを言って、エビスビールを飲んでるおかんを想像できてしまう、わたしです。

 

誕生日ではあるけれど、特別に「お祝い」めいたことはしません。プレゼントも、いまはいいかな。相棒が「コロナが落ち着いたら、ばあちゃんを一泊旅行に連れて行く」と言ってますので、わたしはそこに大規模支援(笑)をするつもりで、へそくりをちびちびと貯めています。

 

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5月18日は、おかんの誕生日であると同時に、

1980年、韓国で「光州民衆抗争」が始まった日です。

 

5月27日までの約10日間、韓国の地方都市「光州(クヮンジュ)」で、「人間が人間らしく生きられる社会」を求めた学生や市民たちに対して、当時の軍事独裁政権は、韓国軍の精鋭(最も「優秀」な人殺し部隊)である空挺部隊を投入して徹底的に弾圧しました。海にはアメリカの空母が「鎮圧できなかったらいつでも加勢する」と待ち構えていました。空挺部隊の軍人たちは、おなじ韓国人の市民たちを手あたり次第に棍棒で殴りつけ、軍靴で蹴り上げて踏みつけ、無差別に「狙い撃ち」して射殺し、負傷した市民を助けたいと献血に向かった女子学生や、臨月の妊婦さん、お年寄りや障がい者までを蹂躙したのです。

 

人として、あたりまえのことを、しかし、極限の状態に追い込まれながらも、勇敢に、毅然と、命をかけても貫こうとした光州の人びとのことを、わたしは中学1年生の5月に、日本の新聞で知りました。

 

「何も悪いことしてないのに、なんで殺されないとあかんのか」

 

ジープに「鈴なり」に乗り込んだ「市民軍」(ふつうの市民たちが、「このまま座して殺されるわけにいかない」と銃を取って自ら組織した「にわか仕立て」の私設軍)の青年たちの写真、年端も行かないきょうだいが、軍人に連行されていく写真、街中を装甲車が列をなして進んでいく写真を見て、ただただ恐怖におののいて、何日も、なかなか寝付けなかったのを憶えています。おかんに連れられて、「光州虐殺糾弾集会」に出かけたときも、恐くて恐くて、「こんな恐い国に生まれなくてよかった」と、ずっと思っていました。

 

でも、その後、韓国の民主化のために闘うひとたちにたくさん出会わせてもらうなかで、「恐ろしい国」という考え方はどんどん変わっていくことになりました。もちろん、軍事独裁政権は恐ろしかったけれど、その暴力に屈することなく、どんなに過酷な状況のなかでも起ち上がっていく韓国の人びとを、「すごい」と思うようになりました。わたしは同じような局面で、とてもじゃないけどそんな勇敢でいられないと、圧倒されました。それと同時に、日本の歴史を知れば知るほど、過去を反省も謝罪もせずに、手を変え品を変えて、いまだに朝鮮半島にルーツをもつ人たちを踏みつけて平気なままでいることが情けなく、恥ずかしく、そこから目を逸らしてしまいたくなりました。そして実際に、そこから距離をおいて暮らしてきた時間がありました。

 

でも、やっぱり、結局、距離をおいたままでは生きていくことができませんでした。勇敢でも、立派でもなく、毅然としてもないけど、出会った人たちと、学んだ歴史に背中を向けて、わたしは、わたしらしくいることはできないんだなと、寄り道やら、回り道やら、迷い道をしてきた末に、そう思っています。

 

わたしが「出会った人たち」のなかで、もっとも近しく、もっとも厳しく、もっともやさしい人は、実は、他でもない、おかんだったと思います。

 

おかんは、「わたしの代では無理やけど、あんたの代でも無理かもしれんけど、〇〇(わたしの娘)の代で何とか、(南北)朝鮮のひとと、ほんまの仲間になってほしい。何のわだかまりも、遠慮も、後ろめたさもなく、胸を張って、『仲間』と言えるようになってほしいと思ってる」とずっと前にわたしに言ったことがありました。

 

当時のわたしは「そんなしんどいこと、言わんといてほしい」と思っていました。「フツーに生きたい」と思いました。「出会ったひとに不誠実な生き方はしなさんな」と言われたとき、「そんなん、まるでヤクザみたいやんか」と口ごたえして、猛烈に叱られたこともありました。でも、いまは、ちょっと無理難題やけど、でも、そんな日をわたしも夢見ていくのかもしれないな、きっとそうなんだろうなと思っています。

 

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わたしは、韓国語を勉強し始めて、もう随分たちます。が、何回かこのブログでも書いているけど、ぜんぜん上達しません。まだまだ努力できるのに、努力が足りないなぁって思っています。

 

おかんは、もう10年以上前になると思いますが、ソウルで元日本軍慰安婦のハルモニとお話をしたあと、「ほんまは韓国の人じゃなく、あんたの通訳でわたしの言葉をハルモニに伝えてほしい」と泣いたことがありました。日本人として、過去を本当の意味で反省も謝罪もしない政府を許している国で、砂を噛むようにくやしい思いでいること、ハルモニに申し訳なくてたまらない気持ちでいることは、同じようにくやしい思いをしている日本人にしか伝えられないと言いました。わたしも、そう思います。いまはまだ、とてもじゃないけど、そのおかんの想いを通訳できるなんて夢のまた夢だけど、でも、それでも、たどたどしくハングルを書いて、読んで、話すことは、やめずに生きていきたいと思っています。

 

おかんのバトン、正面から受けるところに辿り着くまでに50年近くかかってしまいました。わたしはわたしのスタイルで、相棒である娘に伝えていきたいとは思っていますが、おかんがそうしてきたように、結局は、直接何かを言って聞かせるというのじゃなく、わたしの生き方を近くでチラチラと眺めながら、娘は娘で、彼女なりの「何か」を自分のなかに育んでいくのだろうと想像しています。

 

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今日、「検察庁法改正案」の今国会での通過が見送られたという報せを、わたしはいわゆるニュースより先に、センパイのブログでもらいました。

 

韓国の人びとの、途絶えることのない、勇敢な闘いはすごいと思う。だけど、わたしはこの日本に暮らして、この日本を変えていかなくちゃ。韓国で闘う人びとと、本当の意味で、心から『仲間』と呼び合える日のために、わたしは、ここで行動していかなくちゃ。この日本に、仲間をつくらなくちゃ。そう思っています。

 

実は、韓国でキャンドルデモによって政権交代が実現したとき、それと真逆に、あり得ないほどあり得ない政権の横暴がとどまることを知らなかった日本の状況に憤っていたセンパイのつぶやきに対して、ほとんど反応しないまま、足繁く韓国を訪れていたわたしに、「どうして韓国のことにはそんなに熱烈で、日本のことは目にも耳にも入らないのかい?」と指摘されたことがありました。

 

その瞬間は「そんなことないよ」って反発したのですけど、でも、その後、あのときセンパイがどれほどもどかしい思いでいたか、歯ぎしりしたくなる思いでいたか、少しずつ、少しずつ考えてきました。

 

今日の「今国会見送り」は、韓国の闘いに比べたら、ショボいと言う人がいるかもしれない。だけど、そうじゃないと思います。これは、みんなの小さな勇気、小さな発信、小さなつながりが集まって、集まって、集まった成果だと思う。すごいことだと思う。

 

おかんの80歳の誕生日の今日、「光州民衆抗争」から40年の今日、「今国会見送り」の今日を、またひとつの「あの日」にして、ちびちびと、だけど、止まることなく、わたしの道を、歩いていかなくっちゃと思っています。

 

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このあいだから、久しぶりに、わたしの大好きな詩人である茨木のり子さんの『ハングルへの旅』というエッセイ集を読み直しています。

 

第1章「はじまりが半分だ」の冒頭に、赤のボールペンで線が引いてありました。

 

「なんでハングルを勉強するの?」というお決まりの質問についての茨木さんの想いが書かれているくだりの、次の箇所に線が引いてありました。

 

語学一つをとっても、民衆が、国の方針を乗り越えるということなく来てしまった安易さが、つまりは怪訝な質問となって現れるのだろう。

朝日新聞社発行

『ハングルへの旅』(著者 茨木のり子)

16ページより引用

 

自分が引いたのか、おかんが引いたのか、どっちかわからなくて、おかんに尋ねてみたら「わたしは鉛筆でしか線は引かない」とのことでした。自分では記憶になかったけど、ずっとずっと前に、私が引いた線だったんですね。

 

そうなの、そうなんだよ、わたし。

 

かつて奪ってしまったことばを、わたしが学び続けることには、意味がある。そういう、ひとりひとりの、小さな行動から始まるものがある。そこからしか始まらないものがある。

 

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娘が2歳になりたての旅で、

1980年5月の光州に倒れた人たちに、娘と一緒に花をたむけた写真を大事に持っています。

 

わたしのなかの5・18。

そして、おかんの誕生日。

 

今日からまた、がんばっていこうと思います。

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長い長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。

 

なお、1980年の光州民衆抗争、そして、韓国の人びとの闘いのなかで歌われてきた歌などについて、本当にわかりやすく、丁寧に丁寧に書いてくださっているブログがあるので、執筆者のNagiさんに快諾をいただいたうえで、ここにご紹介させていただきます。Nagiさんの今回の連載は全10回です。初回から、本当に胸がどきどきしながら、読ませてもらったあとは、しばらく何も考えられないほどの衝撃も受けながらですが、大事に大事に読ませてもらってきました。

 

おそらく、ものすごく力を込めて書かれたであろう記事を、「これを読んだらよくわかります」みたいに引用させてもらうことに、ものすごく抵抗があったのだけど、あらためて読み返してみても、やっぱり素晴らしいと思うので、10回分、貼り付けさせてもらいます。ファイルが重くなって、動作が遅くなったらごめんなさいね。

 

Nagiさん、「チョッパリ」のくだり、泣けて泣けてたまりませんでした。それでも一緒に歌いたいという想い、ものすごく心に響きました。ひとの綴ったことばに簡単に「共感」するつもりはないけど、それでも、ものすごくものすごくうれしかったです。書いてくださってありがとうございました。そして、紹介を快諾いただいたことにも、心からお礼を言いたいです。

 

ありがとうございました。これからも、よろしく。

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