のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

暮らしのなかに在ってこそ。

この前の日曜日、人と会う約束の前に、ずっと行きたかった西陣織の「手織り」の現場を見学して、織り手のお話をお聴きする機会を得た。

 

一番皆さんとシェアしたかった「手織りの現場」と織り手の方の撮影は残念ながらNGだったけど、織り手さん(何とお呼びするのがよいのか質問すればよかったと帰ってから思ったけど、その織物の会社の方は「うちの織り手」とおっしゃっていたので、ひとまずそれを踏襲しておこう)のお話が本当に素晴らしかったので、忘れないうちに粗いけどここに書かせてほしい。ただ、貴重な存在であられる織り手さんのお話を、あくまで聴かせていただいたわたしの感覚で、その一部を文字にするということをお断りしておきたい。

 

************

 

日本のなかで、みんなが知っているような有名な産地(たとえば博多織:福岡県、西陣織:京都、結城紬:茨城県や栃木県)であっても、帯や着物を織る人も、それを扱う会社も、どんどん減っている。その一番の背景には、生活のなかから着物がどんどん消えていってしまっていること、特別な場所に、特別な人(自分で、もしくは誰かに着付けてもらえるひと)が着て行くものになってしまっていることがあると思う。

 

もっともっと普段の生活の中に着物は在った。朝起きたら着物に着替えて、割烹着を着たりして家事をしたものだった。◯◯流とかでなく、要ははだけてさえこなければいいのだから、紐一本でも着物は身に着けることができる。夏は涼しく、冬は驚くほどあったかい。そして「着物一枚帯三本」と言われるように、一枚の着物でも帯や小物次第で幾通りにも楽しめる。外国の人が京都に来て、すごく自由な発想で古着の着物を買って自己流で着こなしている姿を見ると、日本のひとにもそんなふうにもっと自由にもっと身近に着物を着て欲しいとすごく思う。

 

それから、若い世代のひとが、こういう伝統的な技術を継承してくれる動きにもとても心を動かされる。だからこそ、能登の地震を知って、輪島などでがんばっていた若いひとたちがどうしているか気掛かりでならない。企業のバックアップがあればまだしも、個人でがんばっていた若者たちが今どうしているか、もう一度立ち上がって動き出すことができるか、それを考えることができる状況にあるのか、本当に気になっている。

 

日本の技術、手仕事のレベルは本当に高い。帯を織る時、絹糸1本に触れるだけで国産か輸入か、はっきりわかる。国産の絹糸の繊細さは素晴らしい。そのことを、もっと知って欲しいし、もっとみんなが着物を着ることの敷居を低くして、楽しんでほしいと願っている。

 

*******************

 

もっともっといろんなお話をお聴きしたけど、いま書き残せることを、書いてみた。

 

この織り手さんのお話を伺ったとき、着物がとても似合う、そして着物を着ることが暮らしのなかにちゃんと「在る」ブロ友さんのことが頭に浮かんだ。あぁ、彼女みたいなひとがもっともっと増えていけばいいなぁと思ったし、私は私にできるやりかたで、着物や帯を、もう少し自分に引き寄せてみたいなと思っている。

 

着物や帯の美しさは、遠いところから絵画のように眺めるより、暮らしのなかに在ってこそ、なんだと思う。

 

f:id:nonchi1010:20240320085615j:image

f:id:nonchi1010:20240320085627j:image

f:id:nonchi1010:20240320085637j:image

f:id:nonchi1010:20240320085649j:image

f:id:nonchi1010:20240320085705j:image

f:id:nonchi1010:20240320085603j:image