のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

「勉強せんと、希望は拓かれへんで」

相当に久しぶりに1日のなかで2回目のブログ更新をしております。

 

音楽ともだちに言われたんだわ。

 

「のんちゃん、感じたことは、できるだけその場で文字に書き留めたほうがいい。どんどんこぼれ落ちてもったいないよ」。

 

確かになぁ。「憶えておけることの量」や「憶えておける時間の長さ」より、日々のなかで感じることの豊富さ(よいことも、わるいことも)が圧倒的に勝っている。

 

だから、ちょっと時差はあるけど、この前おかんの家に泊まったときに、ふたりで話したことを少し書き留めておこうと思う。

 

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おかんは岩波書店の『世界』という雑誌をずっと前から購読している。5,6年前は、発売日直後に本屋さんに行けば、数冊は店頭にあったものだけど、だんだんそういう本屋さんが減っていき、「売り切れました」ならまだいいけど、「扱っておりません」と言われることが増えてきたところで、おかんは岩波書店から「産地直送」で定期購読するようになった。

 

その昔、おかんともっと離れて暮らしていた頃、わたしはわたしで定期購読していた。でも、読み終わらないうちに次の号が出てしまうということが増えていって、いつからか買うのをやめてしまった。でも、どこかで「これじゃいかんよな」という思いはいつも持っていた気がする。

 

最近、時々おかんの家に泊めてもらうことがある。用事があって、夜遅くなってから行くことも多くて、なかなか「ゆっくり話す」ってことが出来ていないけど、それでも、相棒ちゃん抜きで、母と娘として、ちょっぴり同志として、先輩後輩として食事を囲みながら言葉を交わせる時間は、とてもいいもんだと思えてきたこの頃。思えば「やっとそんなふうになれた」のかも。

 

こないだ泊まりに行ったとき、おかんの本棚の「世界」のバックナンバーを何気なく眺めていて「追悼・内橋克人さん」という見出しが目にとまった。

 

わたしは、「経済学」とか、ぜんぜんわからない。そんなに関心が高くもなかった。だけど、勝ちゃん(金子勝さんのことを、我が家では昔っから「勝ちゃん」と呼んでいる。彼の話は20~30代に数回直接聴いたことがあるけど、なんていうか、「普通のおっちゃん」ぽくて、好きになった)と内橋さん(残念ながら、お目にかかったことはなく、彼が小さい新聞に寄稿なさった文章を30歳になりたてのころに読ませてもらってからの「贔屓」)が、「経済食わず嫌い」からわたしを救い出してくれた。もちろん、大してわかってませんけども、でも、「経済学(とやら)」を「暮らし」とつなげてくれたのは、このお二人だ。

 

その内橋さんが亡くなったことは、きっと当時のニュースで知ったはずだし、認識していたはずなのに、その後、ずっと自分の脳みその奥底に眠らせてしまっていたんだと思う。「追悼・内橋克人さん」の文字を見て、いま、このときに、内橋さんを忘却の彼方に追いやっていた自分を、ちょっと情けなく思ってドキッとした。

 

いつもならおかんが作ってくれた晩ご飯を囲んでふたりで話すところだけど、わたしはこの内橋さんを扱った文章を読まずにいられず、右手にお箸を持ちながら、お行儀悪いのは承知で、左手に『世界』を持ってむさぼり読んだ。

 

読みながら、いま自分が、この「コロナ禍」で小さな病院の看護師として働きながら、母親として、娘として、ひとりの人間として生きながら、悶々としたり、腹が立ったり、悔しかったり、悲しかったりする、さまざまなことの根っこというか、「なんでそうなるのか」ということを、とてもやさしい言葉で内橋さんはずっと前から教えてくれていた。わたしたちがどこを目指していけばいいかの道筋も、示してくれていた。だけどわたしがそこから遠ざかって生きてきたんだなぁと思った。

 

 

私はいまこそ経済というものを人間の視点からもう一度

捉え直すべきだと思います。生きる、働く、暮らす、

それを統合するのが人間の営みであり、経済なんです。

 

     (「九九年状況を総括する」

      『内橋克人 同時代への発言 7』)

 

 

そこからかけ離れたところに、いま、この国の経済は、在ると思う。

人間が隅っこに追いやられているんだと思う。

それでは、あかんのだと思う。

 

 

そっか、そういうことか・・・・、とごはんをよばれながら、ビールを飲むおかんをほっといてズシーンと受け止めていたら、おかんが言いました。

 

 

あんた、勉強せんと、

希望は拓かれへんで。

そう思たやろ?

 

 

あぁ、これもまた、まさに、そのとおり。納得しすぎて、急に泣けてきて、涙がポロっと落ちないようにがまんして(いや、だって、恥ずかしいから)、黙って頷くのが精いっぱいだった。

 

そう思います。

勉強せんと希望は拓かれへん。

つまり、希望を拓くために、勉強するのだね。

 

ここ数か月、いやもっと長く、本らしい本は読めていなかったのだけど、やっぱり、読まなきゃ、というか読みたくなった。

 

 

内橋さんを追悼するときはもう過ぎた。

内橋さんが遺してくれたことばたちを、もっとわたしの暮らしのなかに取り込んで、もっと内橋さんを自分の近くに引き寄せるときなんだと思う。

 

 

そして、やっぱりおかんはすごい。そのことを、煙たがらずに、疎ましがらずに、素直に受け止めるべきときでもあるんだと、すごく思っている。

 

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