のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

第二話 : 「嫁はんがとっとと洗濯しよる」。

頑固一徹おかんは、自治体労働者の組合で長いこと活動してきた。市役所に就職して数年後には執行委員になって、そのうち書記長になって、最後は委員長をしていた。

 

仕事を定時までやり終えて、そこから組合事務所に移動していろんなことをして、そこから自転車をぶっ飛ばして子どもたちを保育園に迎えに行って、あるいは小学校に入ってからはそのまま大急ぎで帰宅して、夕飯の支度をしながら洗濯をして、ささっと食べてお風呂を沸かして、私たちが寝てから洗濯物を干して、自分がお風呂に入って、日によってはそこからさらに原稿を書いたりしていた。

 

文章を書くのも人前で話すのも、元々はものすごく苦手だったというおかんは、原稿を書くのにもすごく苦労していた。それこそ漫画に出てくる「頭をかきむしって原稿用紙に向かう作家さん」みたいで、弟とわたしがなかなか寝ずにそばでちょっとふざけたりした時には、ものすごい雷が落ちたものだった。

 

おかんが世の中を変えようと一生懸命に活動していることを尊敬できたのは、もっとおおきくなってからのことで、小学生の頃は「もっとわたしらのことかまってくれたらいいのに」とか「もっとおかあさんがやさしかったらいいのに」と思いながら暮らしていたように思う。

 

当時は、組合の幹部に女性がなるのはまだまだ珍しくて、新聞記者が取材に来たこともあった。そのときの記事に添えられた一番大きな写真が、エプロンをしたおかんが弟と相撲をとっているのをわたしがそばで笑って見ているショットだった。わたしと弟は、「こんなのが新聞に載って、友だちに読まれたら困るなぁ」と不安だったけど、おかんはそんなわたしたちに「おかあさんはなにも恥ずかしいことしてない。あんたらも自信持って堂々としといたらええねん」と喝を入れた。実際、記事が掲載されたあと、クラスメイトからいろんなことを言われて、子ども心に憂鬱だったけど、そのことはおかんには聞かれても報告しなかった。

 

おかんが「仕事と組合活動とおかあさん」という「ひとり三役」を颯爽とこなしているとはちっとも思えず、どちらかというと批判的にみていたわたしだったけど、ある時、なにかの食事会で、おかんの知り合いのどこかの組合の委員長のおっちゃん(おかんよりだいぶ年上だった記憶)のひと言に、心の底から違和感を覚えたのを今でも鮮明に記憶している。

 

おっちゃんは、自身の妻のことを笑いながら話した。

 

嫁はんがなぁ、俺が家に帰って「やれやれ」と靴下脱いだらなぁ、ちょっとそっち向いてる間になぁ、もうとっとと洗濯しよる。

 

遅くまで活動してるあんたもエライんか知らんけど、洗濯してくれはるおばちゃん(配偶者)のこと、そんな小馬鹿にしたみたいな言い方ないやろ。子どもながらに、おばちゃんへの感謝がない、おばちゃんの役割を馬鹿にしてると思えて、無性に腹が立った。

 

同時に、そのおばちゃんの役割も全部ひとりでこなしている自分の母親のことを、賛美はできないけど、でも、「ただモノではないんやなぁ。大変なことをしてるんやなぁ」と認識したのだった。

 

そのおばちゃんが外で賃労働をしていたか、いわゆる「専業主婦」だったかはわからないけど、どっちにしても、おっちゃんの「家事労働」に対する目線が「上から」だったと、わたしの心に強烈に引っかかった。もちろん、ちょっと茶化しておもしろおかしく話したのかもしれないし、もしかしてもしかして感謝の照れ隠しだったのかもしれないけど、そこ、茶化すところではないし、そんな照れ隠しはやっぱりおかしい。「とっとと洗濯」してもらえることがどれほどあんたにとってありがたいことか、考えてみろよ。もう40年以上前のことだけど、今でもメラメラとくるものがある。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆

 

こないだ、おかんとアンペイドワークについて熱く語り合ったとき、この記憶についても話した。おかんはちょっと涙ぐみながら聞いていた。そして、「わたしも大概いろんなことしつこく憶えてるほうやけど、あんたも負けてないなぁ」とか何とか、言われた。

 

 

わたしは思う。

 

 

明日も賃労働ができるために、「家庭」で誰かが担う炊事や洗濯や掃除や、子どもや親のケアや、挙げきれないたくさんの「見えない仕事」が眼中にないような労働運動ではいけないんじゃないかな。

 

 

そして、おかんが偉大なのは、それを自分の生活丸ごとで実践していたことだと、いまははっきりわかる。

 

 

あのときの「おっちゃん」に、今ならハッキリ、おっちゃんのどこがアカンのか、言えるのになぁ〜〜〜。

 

 

・・・ちょっと悔しい想い出の、第二話。