のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

微力と無力は、違うから。

遠いところからなんぼ「戦争反対!」なんて言うても、何の意味もない、みたいなことを、恥ずかしげもなく大声でまくしたてるひとに言いたい。


だけど、黙っとくのはいやなんですよ。


おっきなちからにはならなくても、でも、黙っとくのはいやなんです。


そう思ってブログ書いてる人、読んでる人、少なくないと、わたしは思うんです。


遠くの国で起きていることと、自分のくらしをつなげて考えたいんですよ。


威勢のいい、というのを通り越して、圧迫されるような「物言い」じゃなく、みんな、自分のことばで、自分のいつもの声で、心配していると、憂えていると、怒っていると、悲しんでいると、声を挙げたらいいと思う、それを否定したり、罵ったり、攻撃したり、そういうところから争いの芽がむくむくと育っていくと思う。


だからわたしは、いろんなひとが、いまのウクライナのことを書いておられることに、すごく心動かされます。


言い古されてるかもしれないけど、


微力と無力は、違う。


そう思う。


いろんなこと考えながら、スケスケの靴下の裏をキャンバスにして、なんやらかんやら、ダーニング。もはや、好き放題、テキストなし(笑)。この靴下の裏みたいに、みんなのそれぞれの方法で、破れかけた何かを補強したい。などとイメージしたら、泣けてきそうになるわけです。

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無心の手仕事。

週末の陽気のおかげで、いきなりヘビーな花粉症。
鼻水に咳という、なんともご迷惑系の症状で、行きたいところに行けず、もやもやの週明け。


なんか手持ち無沙汰。


こんなときは無心に手を動かすに限ります。


足の裏がスケスケになったウールの靴下にダーニングでお絵描き。

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型紙も、正解も、ない。


これぞ、わたし向き(笑)。


パンの耳がたくさんあったので、パンプディングを作ってみた。

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パンの耳が多すぎて、「プリン風味のパンの耳」になりました(笑)。


さぁ、火曜日。


週末に一日近づいた。


がんばろっと。

「やさしさ」を貫く勇気。

ニュースで爆撃の映像が流れるのを見て、相棒ちゃんが言った。

 

「おかあさん、なんか信じられへんな。こんな映像、現在(いま)、やろ?」

 

ほんとに、そうだ。

 

ちっちゃな子どもがインタビューに答えて、ポロポロと涙をこぼしながら恐怖を語っていた。「死にたくない」と言っていた。

 

どんな理由があったって、こんなふうに子どもが泣かなければならない世界は間違っている。とにかく、こんな状況でいのちが脅かされることは、何とかして終わらせないといけないと思う。

 

だけど、プーチン大統領のことを「恐ろしい」とか「とんでもない」とか言えるほど、わたしたちは平和のなかに生きているのかな。自由と平等のなかに生きているのかな。

 

 

先日の、衆議院での新年度予算採決の一部分の映像です。

 


www.youtube.com

 

この前段の予算審議のなかでも、少数会派や政党の発言機会が奪われて、なんてことだと思っていたけど、この採決の一場面は、ほんとうに、たまらなかった。

 

冬の冷たい雨が降れば「この寒空の下で、ちゃんと寝る場所がない人はどないしてんのかな」と想像して、コロナの第6波が長引けば「医療や介護の現場のみなさん、大丈夫かな」、「コロナで仕事に行かれへんひとは生活していけるんかな。安心して休まれへんなかで、感染拡大を食い止めることなんてできへんのちゃうかな」と心配して、「そんな人たちのためにこそ、政治は動くべきだ」と主張する大石あきこさんたちを見ていて思う。本当の「やさしさ」ってこういうことなんやな、と。

 

そして、というか、だけど、というか。

 

その「やさしさ」が、いまの日本の政治に爪の先ほどもない。そのことを、この採決の一場面を見て、ぞっとするほど実感した。

 

壇上で声を挙げた大石さんたちに向かって、議場まるごと、まるで地鳴りのような野次というか怒号一色になった。

 

何回か繰り返して見て、聞いてみたけど、賛同の拍手も「そうだ、そうだ」の声も、わたしには感じられなかった。彼女たちの存在まるごとを否定するような、侮辱するような空気に包まれていた。

 

こんな場所から、「小さい声」を聴くちからなんて生まれない。こんな場所から、本当に今日の暮らしに困っているたくさんの人たちに届くような政策なんて、生まれない。生まれるはずがない。そう思えてしまう光景だった。

 

だからこそ、余計に思う。

 

「やさしさ」を貫く勇気の、凄さ、について。

 

戦争は、何もないところから、突然には起こらない。

 

こんなふうに、誰かの声を、数のちからで、集団のちからで圧殺するような光景は、戦争と無関係ではない。

 

 

だから、テレビの画面に映るウクライナの子どもたちを憂うのと「別問題」ではなく、わたしは、日本という国のありように抗議したい。

 

こんな国の、こんな国会のなかで、「やさしさ」を貫こうとする人たちに、心から賛同したいと思います。

 

 

追伸

いつも、いろんなすてきなコメントをもらって、ありがとうございます。心のなかではいっぱいお返事書いてるんですけど、なんか、実際の自分の動きが間に合わず、次のブログを書いてしまうことになってスミマセン。でも、間違いなく、どのコメントも、全力でこころでキャッチしています。感謝して、歌ったり、考えたり、仕事したり、ごはんつくったりしています。もうすぐ3月だから、ミモザでリースをお色直ししました。


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誰かの音楽を応援すること。

週末、ひと月ぶりに歌を歌いに行ってきた。
楽器や譜面を提げてやってくる人たちと、ぶっつけ本番で一緒に演奏するのは、スリリングでもあり、宝探しみたいなワクワク感もあって、あっという間に時間が過ぎる。


用意していった曲以外にも、その場で「あの曲は?」ってなことにもなり、「そんな高い音程は出されへんわぁ~💦」と逃げても、「そんなこと言わんとやってみなよ」と煽られて挑戦することになったりする。でも、そういう挑戦からあたらしい世界が拓けるのも実際あって、ひとりで歌うのとはやっぱり違うなぁと思う。


そして、こないだはそれ以外に、すごくうれしいことがあった。


うちのおかんよりは明らかに年下だけど、でもきっと70代だろうなぁと思われる女性がひとりで来られていた。セッションタイムが始まる前から、自作の「歌詞ノート」をカバンから何度も出して頁をめくっておられるのを後ろのテーブルから見て、ずっと気になっていた。


で、「セッションタイム」(と銘打たれてはいますけれど、つまりは「好きな曲を歌って、バックの演奏やらコーラスやら、加わりたい人はどうぞ」という、とてもフレンドリーでアットホームな雰囲気。そこがとても好きで参加させてもらっています)が始まり、わたしからステージに上がらせてもらった。


自分の出番のあと、一緒に参加していた音楽友だちの曲にコーラスと鍵盤ハーモニカで加わって、そうこうしているうちに他の友だちも到着して、何曲か演奏したあと、「あの女性」がずっと観客のままだったので「歌われませんか?」と尋ねてみたら、最初は遠慮なさっていたけど、ステージに上がってこられた。「〇〇を歌いたいけど、カラオケで歌ってるだけだから、うまく歌えるかどうか自信がないけど」と言いながら、だけど、しっかり「歌詞ノート」から選曲されたのが何だかすごくカッコよくて、わたしは鍵盤ハーモニカでご一緒することにした。


伴奏が始まって、歌い出しのところにさしかかってわかったのだけど、もちろん生演奏なので「カラオケ」とは勝手が違って、どこから歌い出せばいいのか明らかに戸惑ってらっしゃった。なので、わたしがいわゆるカラオケの「メロディガイド(歌のメロディをそのまま弾いて、音程やリズムをキープするサポートをする機能)」をやることにした。ご本人の肩越しに、鍵盤ハーモニカでメロディを吹くと、ちょっと迷子になりかけていたその女性が、どうにか「ボーカル」のパートで軌道にのった。1番が終わって2番が始まるタイミングも肩をトントンと叩いて合図したりすると、だんだんノッてこられて、とても楽しそうに歌われた。


わたしは、その姿をみてとてもとてもうれしくなった。それと、すごく大事なことを教わりもした。


「あぁ~、やっぱりわたし、うまく歌いたいんだな」ということがはっきりわかった。楽しむよりも、なんか、どこかでカッコつけてるんだな、ってすごくそう思った。それって、ものすごく損なことだよな、とも思った。


2巡目のときは、フライングで順番を勘違いして早々にステージにあがってこられたりして、気合の入りかたがスゴかった。それもまたわたしにはすごいインパクトだった。女性のパワーがこちらにも伝わって1巡目よりもずっとうまくサポートもできた。まだまだ、まだまだ歌いたそうだった。バックの演奏も、最後の曲の頃には「にわかオーダーメイドカラオケ」みたいに彼女仕様になっていた。


女性は、帰り際、私のところに寄ってきて「最初は何がなんだかわからなかったけど、途中からすごく歌えるようになってうれしかったです。」とおっしゃった。「楽しかったですね」とわたしが言うと、「ほんとにね、楽しかったです」となんともキュートな笑顔で返してこられた。


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帰り道で、音楽友だちからもらったコメント。
「のんちゃんは、ものすごく楽しそうな表情してた。あぁ、この人は根っから、こういうことが好きなんだなぁって思ったよ」。


確かに。自分が歌うのも楽しかったけど、この女性の「バックバンド」と「メロディガイド」はすごく楽しくて、あったかい気持ちで音楽を一緒につくれた気がして、とても幸せなひとときだった。自分の歌には相変わらずあれやこれやと「いちゃもん」を自分でつけてブルーな気持ちになったりしちゃって、それと比べると、ほんと、全力で楽しかった気がする。


誰かの音楽を応援する。


初めてやってみたけど、これ、イイです。自分の音楽にも、なにか化学反応が起こりそう。





来月もお見えになるかな。


ちょっと、楽しみだな。

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日曜日は相棒ちゃんと「フレンチトーストモーニング」など召し上がった。そのあと、「古着女子デビューする」という相棒ちゃんにつきあって、なんと2万歩。なんとも忙しい週末でありました。


 

おかんのキャベツの千切り

昨日は仕事帰りにおかんのところに泊めてもらった。相棒ちゃんが幼馴染みを呼んで「お泊まり会」をしたいと言うのでお邪魔虫は消えてあげようと思いまして(笑)。


「戸締まりと火の元だけはちゃんとしてや?」とLINEしたら、「はーーーーーーい!!」と一言、躍るような返信。


おかんとも、ゆっくり話せた。「歴史戦」のこと。維新台頭のこと。「やさしさ」について、などなど。


最近おかんは「闘えーー!」みたいな言い方をわたしにしなくなった。もうすこしマイルドに(笑)、というか、やさしさを込めて訴えてくる。だから余計に迫ってくるものがあり、動かされるものがある。


そして、「現役と違うから細々手をかけられる」と、いろんなおいしいものを食べさせてくれる。


でも、シンプルなものほど「おかんらしさ」が溢れ出る。


キャベツの千切りなどは、その極み。

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感謝。

生活のど真ん中で歌うこと。

告白しておこう。

ここ数日の自己嫌悪は、「歌えてない」ことを人のせいにしてしまったこと。もっと掘り下げると、「歌えてない」イコール「音楽やれてない」ことに自分自身が置き換えてしまって、「音楽やれてるひと」を羨んで、果ては妬んでしまったこと。

 

洗濯をしたり、ガシガシとお風呂掃除をしたり、相棒ちゃんが脱ぎ散らかした服を片付けたり、「要整理」と付箋を貼ったままの「あとから片付けるBOX」にやっと手を付けたり、そんなことをしていると、時間なんてあっという間に過ぎていって、どことなくささくれだった気持ちでいるところに、音楽ともだちが投げてきたちょっとした言葉に過敏に反応してしまって、めっちゃ腹が立った。歌いたいのに歌えてない自分が、なんだかものすごく不憫に思えて、悔しくなって、そこから先、心のシャッターを下ろしてしまった。

 

「あんたは自由に音楽やれていいよな」

 

つまりは、そう思ってしまった。

 

 

 

 

 

だけど、それで楽になんてならなかったですよ。どんどん、なんか息が苦しくなるというか、心が萎縮するというか、なんだろ、全身の血流が悪くなるかんじ。感情も、からだも、全部淀むかんじ。

 

そこから抜け出さなくちゃ、と思えたのは、ゆうべの相棒ちゃんとのお出かけがあったからなんだろうと、思い返している。

 

それと、久しぶりに再会した友だちの、なんていうのだろう、「自分を生きてます」という熱量に、何かを得たのだと思う。

 

相棒ちゃんが先に寝てから、音楽ともだちに自分のここ数日の葛藤について、正直に伝えた。そこで決裂するなら、それも、ありなのかもな、と思いながら。

 

 

そんなに長い時間話したわけではないけど、自分の心のありようについては伝えられたと思う。音楽ともだちの思っていたことも受け止めたと思う。

 

 

そのうえで、朝起きて、思ったこと。

 

 

 

 

わたしは、生活のなかから歌うってこと。

 

仕事もしてます。母であり、娘であります。名前のつかないような内容も含め「家事」に手を取られ、時間も取られています。そんななかから、それでも歌いたい。「歌えない」とふくれっ面になるぐらいなら、誰に聴かせるでもなく、歌えばいいんだ。それに、「歌ってない」から「音楽やってない」わけではない。自分のなかに、ちゃんといつでも音楽はある。音楽って、そういうもの。

 

なにやってんの、わたし。なにクヨクヨしてんの、わたし。

 

 

 

 

生活のど真ん中で、歌えばいいだけのことやん。

 

 

 

 

なんか、スッとした。

 

そんな月曜日の朝だったの。

 

告白、おわります。

一年ぶり、かぁ。

濃い霧みたいな自己嫌悪から抜け出すには、甘い干し柿にプラスして、生命力のカタマリみたいな相棒ちゃんを伴って、素敵な場所で待ってくれてる友だちに会いに行くのがきっとイイ。


ほんとは相棒ちゃんとの母娘ツーショットなどをお願いするつもりだったけど、それは後日のお楽しみにして、ただ会うだけでもいいじゃん、となりまして、バイト終わりの相棒ちゃんを車に乗せて、素敵な隠れ家に行ってきたよ。


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ちょうど去年の同じ時期、同じイベントに、友だち(当時はまだ、わたしが勝手に憧れていた女子だった)を訪ねて以来だから、一年ぶりの再会。

でも、お互い、ブログの世界で往来していたので、そんなに久しぶりな感じがしない。まったくの初対面の相棒ちゃんまで、なんだか旧知の仲みたいに打ち解けて、不思議な居心地のよさだった。

2階で素敵な音楽を演奏していて、上にあがると別料金が発生するのだけど、1階のわたしたちは、おしゃべりしながら、2階から階段伝いに聴こえてくる音を贅沢にもタダで聞かせてもらってしまった。

登場したショコラたちは、相棒ちゃんにはあまりに「おとなテイスト」な、スパイスの効いた個性的な面々。

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それでも、雰囲気に魅入られたのか、おちょぼ口で召し上がっていた。余裕で一回り以上離れたおねえちゃん(わたしの友だち)と、楽しそうに話す相棒ちゃんは、初めて見る横顔で、なんだか初々しくて、ちょっと眩しかった。あとで相棒ちゃんが言ってたけど、「○○ちゃんは、なんか、ほんま、話しやすい、けどめっちゃ自分の世界のある人」だそうで、そんなお姉ちゃんと話せた相棒ちゃんは、とてもしあわせだったと思う。

自己嫌悪の霧のなかにいたわたしは、そんな相棒ちゃんと友だちのおかげで、少し、いや、だいぶ、ましになりました。

素敵なバレンタイン・イブ、でありました。


ありがとう、友だちと、相棒ちゃん。

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