新型コロナの感染拡大が止まらない。ベッドサイドからスタッフが1人欠け、2人欠け…、その人たちの復帰を待たず、次の感染者が出て、「あと一人陽性者が増えたら、もう現場はまわりません」というリーダーからの報告が何日続いているだろう。欠員が出るたびに、リーダーは勤務表とにらめっこして、「誰の穴を誰が埋めるか」のパズルをするのだけど、そのパズルをしている最中に、次の「わたしも熱出てきました」の電話が入ってくるような状況。おまけに、検査のキットの品薄が続いていて、迅速に検査して「白黒」つけることもままならない。
これ、第7波にもなって、おかしくないか?
現場が何に苦労しているか、何を必要としているか、まったくわかってないし、わかろうとも思ってないよな、とげんなりする。ただでさえ疲れているけど、この国の政治の無策ぶりにまともに向き合うと、本当に、医療現場で働く心が折れてしまう。
どこまで続くのか。
どこまで、やれるのか。
自分のこころとからだの「おきどころ」をちゃんと考えないと、真っ黒い波に呑み込まれてしまいそうになる。
血も涙もないような連中のせいで、彷徨うことは、したくない。
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仕事の日は、たいてい夕方の渋滞に巻き込まれながら、小一時間運転して家に帰るのだけど、道中はラジオを流している。集中して聴くというよりは、なんとなく聞こえてくるぐらいのかんじが頭のリセットにはちょうどいい。
少し前、そのラジオで著者も出演して紹介された本の「帯」のことばに心を持っていかれた。
一刻もはやく、
兄を持ち運べる
サイズに
してしまおう。
その本のタイトルは『兄の終い』、著者は翻訳家でエッセイストの村井理子さん、初めて耳にするお名前だった。わたしの家には、本棚からはみ出すぐらいの「積ん読」状態の本があるのだけど、それでも、この本は「今すぐ読みたい」と思った。
家には帰らず、近くのイオンの大きめの本屋さんへ直行して探してみたけど「在庫なし」。諦めきれずに少し離れたもう1つの本屋さんにも寄ってみたけど、やはり「在庫なし」。仕方なくネットで注文して数日待った。
届いた日はちょうど相棒ちゃんがアルバイトで帰宅が遅かったので、夕飯を適当にすませて、ひとり、静かな静かなリビングでページをめくった。
著者の体験が、そのまま自分に重なって、ものすごい勢いで読んだ。翌日、日帰り出張から帰る電車の中と、電車を降りてからの喫茶店で最後まで読み切った。途中、電車のなかでも、喫茶店の席でも、静かにたくさん泣いてしまった。
著者の体験に重なった、自分の体験・・・。
それは、わたしの叔父の「終い」。
2015年、いまから7年前の7月のおはなし。
沖縄のアパートでひとりで亡くなっていた叔父と、わたしと、相棒ちゃんと、頑固一徹おかんの、おはなし、だ。
ものすごく長くなるし、ものすごくヘビーな内容だし、そしてきれいにはまとまらないのだけど、これ、いま書かないと、と思って。
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あの日、わたしにも、唐突に電話がかかってきた。
ちょうど訪問看護を終えて事務所に戻ってきたところだった。
わたしの場合、電話の相手は警察ではなくて頑固一徹おかんだった。
「〇〇(おっちゃんの名前)がな、ヘルパーさんが家にいったら亡くなってたんやて」
おかんのそのひと言を聞いたところからの、わたしの動きは、まさに『兄の終い』の展開のまんまだった。
「明日からお休みさせてください」と職場にお願いして、その日のカルテを書き上げて大急ぎで帰宅して、おかんと相棒ちゃんとわたし、3人分の飛行機チケットとホテルをネットで確保して、翌日沖縄に向かった。レンタカーを借りて、警察に行って、事情の説明を受けて、おっちゃんに対面して、火葬の手配をして、アパートの片付けの段取りをして、火葬して、お骨を拾って、「できるだけおっちゃんをちっちゃくして大阪に帰る」ことをやり遂げるために2泊3日、走り回った。
『兄の終い』には、心強い同志が登場するけど、あの時のわたしは、相棒ちゃんと、おかんを、上等なホテルに送り届けて、あとは全部ひとりでやった。おかんの上に、一番上の姉さんがいるのだけど、彼女は心臓が弱いこともあって、「終わったら報告するから」と説得して沖縄にも連れて行かなかった。「わたしがちゃんとやるから、おばちゃんは家で待ってて」と電話したら、おばちゃんは電話の向こうで声を震わせて泣いていた。
おっちゃんの遺体に対面するのも、おっちゃんのアパートの中を確認するのも、全部ひとりでやるしかないと思ったのは、7月の暑い沖縄を、歳をとり始めて、しかも思いがけず弟を亡くしたおかんと、しっかりしてると言うものの、まだ小学生だった相棒ちゃんを連れて移動してまわることの大変さだけでなく、見るものが恐らくとてつもなくショッキングだと想像できたから。それをおかんにも、相棒ちゃんにも見せるわけにはいかないと思ったから。そして、多分、おっちゃんも「のんちゃんだけに頼む」と思ってる気がしたから。
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生前のおっちゃんは、何十年も前に妻と子どもを置いて出て行って、あるときはパチンコ屋さんの住み込みで働いたこともあったようだけど、ほとんどホームレスになっていた時代も長くて、最終的には、沖縄の離島に流れ着いて、そこの駐在所のおまわりさんが、「このひとは様子がおかしい」と気付いてくれて、捜索願いを出していたおかげで、おかんのところに「弟さん、生きておられます」の連絡が来た。
見つかってから、おっちゃんは一時大阪に戻ってきたけど、おっちゃんが出て行ったときに残した借金を肩代わりしたおかんも含め、3人いる姉たちに散々悪態をついて、また沖縄に帰っていった。
そこから20年近く、おっちゃんは沖縄でひとりで暮らしていた。自分と同じような精神疾患をもつ人たちの入居施設の職員をやったりもしながら、でも、苦労がたたったのだと思うけど、ある時を境に、一気に歳をとって、か細くなった。
「亡くなった」と連絡を受ける1年ぐらい前には、路上で倒れていたところを通行人が救急車を呼んでくれて、病院に運ばれてICUに入院した。そのときも、夜に沖縄の病院からおかんのところに突然電話がかかってきて、「危険な状態だから、できるだけ早く病院に来てください」と言われておろおろしているおかんを引っ張って、なんだか旅行気分ではしゃぐ相棒ちゃんを連れて沖縄に飛んだ。静かに覚悟しながら入ったICUのベッドにちょこんと座って「あぁ、遠いとこ、すまんね」と言ったときの、いかにも「末っ子の長男」っぽいおっちゃんの笑顔は、いまでも憶えている。「心配かけといて、その軽い感じは何やねん」と突っ込みたくなったもんだ。
その入院のあと、心配するおかんの「代行」で、相棒ちゃんを連れて何回か沖縄におっちゃんを訪ねて行った。1回は、おっちゃんが大阪に来て、うち(当時、頑固一徹と相棒ちゃんとわたしの3人で暮らしていた)にしばらく滞在した。今思えば、その頃には十分体調が悪かったはずだけど、相棒ちゃんがせがむプールやら遊園地につきあってくれて、一日たっぷり遊んで帰ってくる、なんてこともあった。おっちゃんが沖縄に戻ってからも、1,2回はわたしと相棒ちゃんで沖縄に遊びに行った。
最後に沖縄におっちゃんを訪ねたとき、お盆過ぎの静かな海に3人で遊びに行った。他に誰もいない静かな海で、相棒ちゃんはいつまでもしつこくチャプチャプと浮き輪につかまってうれしそうに泳いでいた。
「今日はおっちゃんがおごるわ」と言って、海辺のカフェでホットドックやら、コーラやら、フライドポテトやらを買って3人で食べた。帰り道の夕飯も「豪勢にいこか」と言ったので「あんまりお金遣わんといて」と心配したら、おっちゃんが連れて行ってくれたのは、おうどんや丼を出す全国チェーンのお店で、そこの「天ぷら定食」をものすごく誇らしげに頼んでくれた。お値段はみんなあわせても3000円するかしないかぐらいで、だけど、おっちゃんにとっては、この「天ぷら定食3人分」は、ものすごく豪勢なディナーだった。そこから想像するおっちゃんの日常に、その日の夜、こっそりポロポロ泣いた。
そのあと、行こうと思えばもう少し行けたけど、些細なことでおっちゃんに腹が立って、生きているおっちゃんに会ったのは、あれが最後だった。
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ちっちゃいときも、ほかのいとこたちよりなぜかおっちゃんにかわいがってもらって、おとなになってからも、そんなふうに、親族のなかで唯一おっちゃんと交流したわたしだったから、突然に死んでしまって、見られたくもない荒れたアパートの部屋に踏み込まれるとしたら「のんちゃんが一番ましやな」と思ってる気がしたのもあって「買って出た」役だったけど、そりゃ、恐ろしかった。ドキドキするなんてもんじゃなかった。だけど、やらなきゃ終わらなかった。誰かがやらなきゃいけなかった。村井さんが書いてらっしゃったとおり、泣いてる暇なんてなかった。ただ、おっちゃんの遺体に対面するときだけ、全身が震えて、同席してくれた警察の方に「どうしても見なくちゃいけないですか? わたしの叔父に間違いないんです。それだけじゃだめですか?」と泣いてお願いした。でも、当然のことながら、「お辛いけど、どうしても直接ご確認いただかないとならないんです」と言われて、そのようにした。想い出してみるけど、きっと、泣いたのは、あのときだけだった。もちろん、おかんと相棒ちゃんは、ホテルにいたので、なんにも知らない。
おっちゃんのアパートの片付けは、2泊3日ではどうにもならず、それと、その片付けにひとりで挑む根性がどうしてもなくて、電話で探した「遺品整理」の業者さんにお願いした。代金はそれなりにしたけど、でも、とても丁寧な対応と、いくら仕事といっても、やってもらう内容を考えたら、それは妥当な金額だったと、いまでも思う。
それにしても、葬儀屋さんも、火葬場のひとも、沖縄でお世話になったひとたちは、みんなやさしかった。ことばをたくさんかけてもらったわけではなく、本当に、黙っていても伝わってくる「いたわり」があった。「お骨拾い」までは、本当にスムーズであっという間だった。
おっちゃんは、この時点で、もちろん、ものすごくちっちゃくなっていたわけだけど、もうひとつ、おかんと相談して決めたことがあった。それは、もはや時効だと思うので、そのまま書くのだけど、「沖縄の海に、おっちゃんを返してあげよ」ってことだった。正式に、船を頼んでの「散骨」ではなく、おっちゃんが相棒ちゃんと最後に遊んでくれた海に、返してあげようということだった。おっちゃんは、いろんな挫折があって、その昔、家族を置いて家を出て行った。とのときから、「家」というものに、あるいは「親きょうだい」というものに、縛られたくなかったんだと思う。想像もできない孤独に苛まれたこともあっただろうけど、それでも、最後まで沖縄での一人暮らしを貫いたのも、わたしはそういうことだと思っていて、おかんも、「死んでしもてから、いろんなしがらみのある『一族』のなかに戻すのは、かわいそうや」と言った。大手を振ってできることではないけど、でも、それが一番おっちゃんらしい『終い』じゃないかと思ったので、沖縄での最後の1日に、それをしてあげるつもりだった。なのに、何ということか、おっちゃんが火葬場に移動したあたりから、スコールみたいな大雨になった。なんとかギリギリまで天気の回復を待ったけど、車を運転するのも恐いほどの雨足で、とても海に近づけるような状況ではなかった。
「わたしと〇〇(相棒ちゃん)でもう1回沖縄に来るわ」とおかんに提案した。おかんは、「何回も、あんたばっかりにしんどい思いさせて、それは申し訳ない」と言ったけど、これこそ、わたしと相棒ちゃんの仕事だと思ったから、おかんを説得して、おっちゃんのお骨をボストンバッグに入れて、飛行機で大阪に戻った。
7月が終わって、少し肌寒くなりかける頃に、相棒ちゃんとわたしで、おっちゃんの『終い』を完結させた。おっちゃんが遊んでくれた海に、相棒ちゃんとふたりで行って、静かな波がザザザッときて、帰っていくタイミングで、波におっちゃんを連れて行ってもらった。相棒ちゃんはどう思っていたのだろうか。ふたりとも泣いたりはしなかった。ただ、丁寧に、波におっちゃんをお願いした。その『終い』の前に、おっちゃんの一番上の心臓の弱い姉さんに、おっちゃんのお骨を素敵な天然木の箱に入れて、手渡してきた。いかにも長女らしい、責任感の強いおばちゃんだから、末っ子の弟のことを大事に思っているのは黙っていてもよくわかっていたから。
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そうやって、やり終えた『終い』のあと、おっちゃんのお骨が入っていた白い壺を、どうしていいかわからなかった。棄てることもできず、かといって、白い壺はあまりに生々しくて、誰の目にも触れさせたくなくて、わたしはずっと押し入れのおかんの蔵書の山のなかに紛れ込ませていた。忘れていたわけではないけど、想い出すこともまた、していなかった。
だけど、『兄の終い』の最後の、お兄さんのお骨のことに触れているくだりを読んで、わたしのなかにあった、おっちゃんにまつわるいろんなものが、一気にメキメキと、心のなかに現れた。
「おっちゃんの居場所をつくろう」。
いままで考えたこともなかったけど、わたしや相棒ちゃんがわちゃわちゃと日々の暮らしを営む、その一角に、仏壇なんかじゃなく、もっと自然な、おっちゃんの居場所をつくろうと思い立った。
そこから数日、めっちゃがんばりました。
そして、できた、おっちゃんの居場所。
わたしの大好きな台所のすみっこ。
すみっこだけど、隅じゃない。
珈琲が好きだったおっちゃん、昔はデザイン事務所をかまえて、ちょっとカッコよかったおっちゃん、末っ子の長男で、母親からもきょうだいからも大事に大事に想われていたおっちゃん。
いかにも仏壇、みたいじゃない、この場所のこと、きっと気に入ると思う。
相棒ちゃんに、「こうしようと思うねん」と伝えたら、「ええやん、それ、めっちゃええやん。おばあちゃん(頑固一徹おかん)、きっと喜ぶで」と言っていた。わたしもそう思う。まだおかんには知らせてないけど、そのうち、報告するつもり。
1冊の本との出会いが、こんなことにつながった。
おっちゃんの居場所と、おっちゃんを海に返した「あの日のわたし」をほめてあげる場所。
この先の人生を、きっとおっちゃんも応援してくれる気が、するんです。