のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

ひもじいことは、哀しいこと。

昨日、久しぶりに頑固一徹おかんの家を訪ねて、あれこれ話しながらお昼をよばれた。「明日は久しぶりにお弁当を入れたるわ」と言ってもらい、今朝、出勤途中に待ち合わせをして、朝刊と手作りお弁当を「物々交換」した。

 

最近、仕事で「これでもか」というほどいろんなことが起こる。ある程度想定できるものから、「え、そんなこと、ある?」と言いたくなるようなことまで。「今日は何もなかったな」と思える日を、随分長いこと経験していない気がする。

 

そんな状況だからなおさら、「お昼」は本当に大切なひとときだ。

 

「お弁当を入れてあげるのに、寝坊したらあかんと思うと、眠れないときの睡眠導入剤もおちおち飲めないので、ちょっとお弁当はお休みしたい」とおかんに言われてからしばらく、自分でお弁当を作っていたけど、そりゃ、誰かに作ってもらったお弁当の蓋を開けるときのうれしさは、格別ですね。

 

今日のおかんのお弁当、いつにも増して豪華。

 

おかんは「食べること」を本当に大切にするひと。

 

その理由は、「食べるのが好き」っていうのはもちろんだけど、もうひとつ、大切な大切な理由がある。

 

「ひもじいことが、どんなに哀しいことか。食べるもんがないことが、どんなに情けないことか。だから、ちゃんと食べられるいま、食べることを疎かにするわけにはいかんねん」。

 

 

おかんは1940年生まれ。4人きょうだいの上から2人目。両親は大阪市内で古本屋さんを営んでいたけど、空襲がひどくなり、おかんの母方の実家がある、大阪のなかでも田舎の村に引っ越した。その引っ越しの直後、大阪におおきな空襲が来て、古本屋さんがあったところは、一面焼け野原になったと、おかんは言っていた。

 

母方の実家があるといっても、「一切助けてはくれへんかった」そうで、親戚の大きな家の納屋みたいな6畳一間に親子6人で暮らしたそうだ。お風呂はもちろん「もらい湯」で、白いお米なんて食べられるはずもなく、「なんば粉」(とうもろこしの粉かな、とおかんの記憶)を蒸しただけのものを、来る日も来る日も食べていたんだそうだ。それを親せきから「〇〇の家からはいつも臭いにおいがする」と笑われて、ものすごく屈辱的だったとも。

 

8月15日のことは、ほとんど記憶にないそうだけけど、ただ、「これでもう、ひもじい思いをしなくて済むのかな」と思ったのだけは憶えていると言っていた。

 

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そんなふうにして迎えた「戦後」。

 

だけど、ひもじさは、その後もかなりの間、おかん一家だけでなく、周りの貧しい家々につきまとっていたという。

 

そんななか、おかんが「あの光景は死ぬまで忘れへん」という日が来る。

 

ある日、大阪市内から、裸足で、真っ黒に汚れた下着みたいな服を来て、遠い遠い親戚の子どもがきょうだい2人連れでおかんの家に辿り着いた。

 

ガリガリに痩せこけて、目だけギラギラして、誰かわからないぐらいだったその2人は、おかんのおかん(つまりわたしの祖母)に「おばちゃんとこにおいて」と懇願したそうだけど、おかんのおかんは、当時やっと食べられるようになっていた麦の混じったごはんをおひつが空っぽになるまで食べさせて、そして、2人のことを見送ったそうだ。

 

おかんいわく、

 

「夕陽に向かって、来た道を2人でとぼとぼと歩いていく姿を、わたしは死ぬまで忘れへん。なんで追い返したんやとおかあちゃんに詰め寄ったら、『あの子らを引き取ったら、あんたらに食べさせるもんがなくなる。だから追い返すしかなかったんや』と泣きながらおかあちゃんに言われた。きっと、あの2人は途中で死んでしもたと思う。だけど、そうするしかなかったんや。ひもじいことは、哀しいことなんやで。戦争っていうのは、それほどにえげつないもんなんやで」と。

 

戦争で亡くなるということには、戦争に敗けた後も、こんなふうにして、ひもじさのなかで、誰にも甘えることもできずに、孤独に命を落としていったひとたちのことも含まれると思う。どんな勇ましいことばで飾り立てようと、戦争で亡くなるということは、そういうことなんだと、私たちは、しっかり「記憶」しなければならないと思う。年月の経過とともに、ひとつずつ減っていく、その「記憶」を、ひとつでも多く、引き継いでいかなければならない。

 

 

おかんのおいしそうなお弁当を前にして、あらためて、強く、強く、そう思った。