ここ数週間、コロナ陽性者がじわじわと周辺で増えている。もちろん入院患者さんにも。重症化はしないけれど、感染力は依然として強いと思う。スタッフサイドの対策と同時に、本当は入院患者さんご自身にも感染対策への参画をお願いしたいのだが、ほとんどの患者さんが程度の差はあっても認知症をもっておられるので、なかなか難しい。
保育園でも、手足口病が流行していて、「おかあさん(スタッフ)は元気だけど、子どもが登園できないので仕事を休みます」の事態も散発。
その上に、最近よくある「暴風警報」や「大雨警報」・・・。朝の7時に警報が出ていると保育園や学校がお休みになる。そのことで仕事に直接影響をきたすのも、圧倒的に「おかあさん」だと日々痛感する。
この状況、どうしようもないのだろうか。
現場はみんなで支え合いながら日々を乗り切っている。でも、「だからいいやん」ってことでよいのだろうか。
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なにか、社会のなかの弱い部分に手当てをしようとすると、「財源がどうの」とか「人員がどうの」とか、「一部のひとだけ優遇するのか」とか、いろんな声が出る。「そこをやるなら、ほかにもやらないといけないことが」とか。
でも、いつも思うのですよ。
「財源は、ないわけじゃなくて、使いみちが間違ってる」んであって、
「人員は、いないんじゃなくて、減らした」んだよ。
ひとや、お金を、何の目的で、どこに使っているか、なんだ。
もっと、その動きを、生活者として、納税者(というか、もはや権力者にお金を横取りされてるとしか思えない日々だけど)として、監視しなきゃいけないのに、もう、働くことだけで一杯いっぱいになっている。そうなるように、何十年も周到に進めてきた連中がいるんだよ。
だけど、それでも、選挙に行く時間は、ある。つくれる。つくらなきゃいけない。一票で意思表示できることへの責任と、義務(義務って、なんかいやな言い方やなと思わないこともないけど、何が伝えたいかというと、世の中のありように、わたしも関係あるやんってこと。それは自分にも向けて言いたい、ってこと)と、権利は全力で行使して、果たさなきゃ、と思う。(それさえできないほどに切羽詰まった毎日を余儀なくされているひとが少なくない数存在していることを、もちろん想像しながらも)
「とっくの昔に、始まる前から、勝負あり」みたいに大きなメディアでは報じられているけれど、「ひとり街宣」をしている人の姿が、ちゃんと、ある。「なぜ小池氏ではだめなのか」を丁寧に力強く発信しているひとが、ちゃんと、いる。
東京都民だけじゃなく、わたしも、ちゃんと考えたい。
勝負は決まっていない。
そして、未来は誰かに託すものじゃない。
「このひと」と思えるひとと、
それに賛同するひとたちと、
一緒に創っていくものだと思う。
大阪からも、手をつなぎたい。