のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

家は出られなくとも。

自分が、実はこんなに腹が立ってたのか、とか、こんなに悔しかったのか、ということに、誰かの文章を読んだり、歌を聴いたりすることで、突然に気付かされることがある。

 

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わたしは、生まれも育ちも、世の中から見られる存在としても「女性」である。「生まれ」と「育ち」の「性」が違うひともいるし、本当は違うのに、その違いを表出できなくて苦しいおもいをしているひともいるということが、歳を重ねるごとに少しずつわかってきて、そういうひとたちにとっては、この日本という国は、なんと生きづらいことだろうと想像する。

 

それとは少し違うけど、わたしも「世の中から見られる存在」としての「女性」というものに、生きづらさを感じてきたし、いまも感じている。のにもかかわらず、その生きづらさに意識的に鈍感になったり、自ら蓋をしていると感じることがある。

 

その意識的な鈍感さや、自分のこころに載っけた重たい蓋を、大泣きしつつ大笑いしながら思いっきり払いのけて、叩き割ってやろうかと思えるときがある。それが、同じような思いを爆発させて「女ともだち」が書いたブログを読んだとき。(あ、ここでの「女」は、「世の中から見られる存在」としての「女」の悔しさを自覚しているひとびとのことで、「ともだち」というのは、わたしが勝手に「このひと、ともだちや」と思っているひとのことを指す、笑)

 

で、そんな「女ともだち」ひとりひとりのドアをノックして、直接「これ読んで」と届けたいマンガを見つけちゃったもんだから、そのことを急いで伝えたい。

 

 

先週末、用事があって京都に2日連続で出かけたのだけど、2日目に立ち寄った古本屋さんで見つけた。

 

帯のことばだけで、もう鼻の奥がつーーんときた。

 

 

家を出よう、女たち。

たとえまた帰る日があるとしてもーーー。

この勝ち負けのない戦い、

迷いと充足の物語が漫画という形で表現されたことを、

同じ仕事をする者としてありがたく誇らしく思います。

 

    近藤ようこ(漫画家)

 

 

韓国のなかでもとくに家父長制が根強く残る大邱(テグ)という街から脱出したいコンジュという女性と、ソウル育ちで「結婚も男もまっぴらごめん」と思っていたはずのホンヨンという女性が、ブログを通して出会って、それぞれの「女」としての生きづらさに対して、体当たりしたり、逃亡したり、諦めたり、諦めきれなかったり、メソメソしたり、飲んだくれたりしながら生きていく、そんな日々を短編のロードムービーの連作みたいにつないでいる漫画。(説明がへたですみません)

 

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「女」だから、当たり前に「仕事と家庭、どっち取るの?」と迫られ、「両方取るなら、ちゃんとやってね」と突き放され、「女なんだから、嫁だし、妻だし、母だろ?」と「なんでも屋」を丸投げされて、それが務まらない自分を、自分で蔑んで、「わたしもそうだったよ、そうやってがんばってきたんだからさ」と再生産を静かに強要されて、それでも「わたしの心もち次第で、暮らしは明るく楽しくなる」と自分に呪文をかけて、「手伝おうか?」とぬかす男ども(男性の読者のみなさん、御免)に「ありがとう」とか「助かるわ」とか言ってニコっとしたりしてきた自分と重なりすぎて、笑いながら泣いたよ。

 

 

家を出よう、女たち。

 

って、帯にあったことばが、本当に胸にぐっとくる。そして、たとえ家は出られなくとも、こうして、女ともだちの文章を読んで、そこに心を寄せて、一緒に心を動かすことはできるぞ、と思う。こんな素敵な漫画は描けないけど、わたしたち、みんな、わたしたちの言葉で、もっと声を挙げていいと思う。別にシュプレヒコールじゃなくても、まとまってなくても、感情ぐちゃぐちゃでもいいから、誰かに聴こえるように、声を挙げたらいいと思う。

 

この漫画、ほんと、本気で「廻し読み」したいぐらい。

 

そして、あーでもない、こーでもない、と、女ともだちと喋りまくりたい。

 

そんなかんじ。

 

 

 

みんな、自分を、生きよう。