のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

言葉の重みは、歴史の重み。

みなさんのブログにはちょこちょこ寄らせてもらっているけど、自分の文章はしばらくぶり。「あ、このこと、書こうかな」と思っていたら、全然違うことに心をごっそり持っていかれたり、ただ一日働いて帰って、ごはん食べながら寝そうになったり、「う~~ん、こりゃ悩ましい」と深堀りして考えているうちに時間だけが経ってしまったり。

 

で、思ったのだけど、わたしは思い立ったときに、そのままを書くのが性に合ってるのだな、きっと。逆にいうと、書かないときも、あっていい、のだ。

 

 

そして、今日は、「書きたいとき」だ。

 

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今朝、台所で朝ごはんの支度をしながらスマホに登場した言葉に、まさに、言葉を失った。

 

いま、大阪では、ホテル療養できるベッド数を増やそうという動きが急ピッチで進んでいる。そのことを、看護職への謝辞とひっつけて宣伝している知事のツイッターへのコメント。

 

「看護学生を学徒動員というのはどうでしょう」

 

 

え?

 

 

 

え?

 

 

 

いま、何て言いました?

 

 

 

 

もう、本当に言葉がなかった。戦争体験皆無のわたしだって、頭にすぐ浮かんできた。神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会のモノクロ写真。そして、もちろんわたしは看護師だから、沖縄の「ひめゆり学徒隊」のことだって思い浮かべた。

 

動員とか、命令とか、最近コロナをめぐって登場する言葉には本当にぞっとする。命令されて、動員されて、どれだけのひとが、知らない土地で、飢えや病気や、もちろん戦闘による負傷で死んでいったか、想像せずにいられない。

 

これは、ちょっとした表現の問題、なのだろうか。わたしは「いちいち重箱の隅をつついている」のだろうか。

 

同じく今朝、ネットニュースで日本テレビ系『スッキリ』で3月に放送されたアイヌ民族差別表現について、収録から放送に至る経緯などを振り返る検証番組が流されたとの記事も読んだ。

 

なぞかけと称して、「あ、犬(アイヌ)。」だなんて。

 

どうしてそんなことが言えるのか。

 

恥ずかしくてたまらない。

 

 

 

 

 

だけど、思えば、「知らされていない」というのはそういうことなんだ。

 

かつてこの国が、数えきれない若者たちを「命令」のもとに戦争に「動員」したことも、誇り高く生きるいくつもの民族を差別して、土地や、名前や、いのちを奪ったことも、知らされていないのだ。知らないということは、こんなふうに、二重三重に、世代を継いで、罪を再生産していくのだと、わたしは、重く、重く、受け止めたい。

 

「府民のいのちを守るため」。

 

そんなことばで「命令」されて「動員」されていくかもしれない自分自身を想像して恐くなる。それが、再びの過ちの序章にならないように、わたしにできることを、考えながら、今日を生きていかなくちゃ、と思っている。