のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

近くで、そっと、思いやる。

昨日は、仕事のあと、頑固一徹おかんを家まで迎えに行って、美容室と眼科を「はしご」して、そのままおかんの家に車で一緒に移動して、泊めてもらった。(相棒ちゃんは、「ひとりの夜」を満喫すべく、学校帰りにスーパーでいろいろ買い出ししてきたとのこと、本人からの報告でキャッチした)

 

車のなか、家に着いてから、あれこれとしゃべった。今日は圧倒的にわたしのほうがたくさんしゃべって、おかんは「聞き役」に徹してくれた印象。話題の中心は、コロナのなかで見えてくる、わたしたちの社会の『やさしさの劣化』だった。もちろん、徹底的に「国民」を無視した政権の責任は大きいと思うけれども、やっぱり、それだけじゃないと思う、ということ。わたしたち自身が「どうなっちゃってんの」ということについて、わたしたち自身がもっと考えないといけないよね、と話した。

 

重症から脱したコロナ患者さんの転院先の整備は、「次の大波」に向けてここ大阪でも進められているのだけれど、「カネにもの言わせてる」という表現がぴったりの「遣り口」に思えてならない。そして、たとえカネを積まれても、いろんな制約のなかでそこに手挙げできない医療機関は一瞥もされない、軽い存在にされている。(わたしの仕事場はここに位置する)

 

正直、「そのカネ、誰のカネ?」と訊きたい。「あんたのカネちゃうで」と言いたい。事前のヒアリングも、相談もなく、ものすごいスピードのエスカレーターの直前で「乗るの?乗らないの?」と急き立てられているかんじ、と言えばいいか。とにかく、「やってられない」日々。

 

頑固一徹おかんは、そういうなかで働いている娘のことを、最近は「そっと」見ている。以前なら「そんな理不尽なことあるかいな、そんなん黙ってたらあかんで」と正論を剛速球でぶつけてきたのだけど(笑)、なにか思うところがあるのだろう、様子が変わってきている。

 

わたしは、それがおかんの「思いやり」なんだと受け止めている。

 

近くで、そっと。

 

それは、本当はもどかしいだろうと思う。「もっと物申せ」と言いたいだろうな、と想像している。でも、それをしないおかん。

 

 

この前、ある新聞記事を切り抜いて、朝のお弁当配達のとき、持たせてくれた。

f:id:nonchi1010:20210630085342j:plain

 

「あんたら、これに曝されてるわけやなぁ」、とだけ言って。

 

 

これが「おかん」なんだな。

 

 

これが「母親」なんだな。

 

 

そんな気がして、鼻の奥がツンとした。

 

 

この切り抜きは、手帳に挟んでいつも持っている。

 

 

やっぱり、おかんは、すごいと思う。

 

 

今日はすこしゆっくりめの出勤なので、朝ごはん、おかんとふたりでゆっくり食べた。相棒ちゃんに「起きてますか?」とLINEしたら「もちろんやんか」みたいな返事がきた。

 

 

相棒ちゃんの成長のおかげで、わたしはおかんとこんな時間を持てるようになった。

 

 

わたしのことを、近くで、そっと、思いやってくれるひとに感謝しながら、今日もがんばろうと思う朝です。

 

f:id:nonchi1010:20210630083820j:plain