のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

奪っても、奪われてもならないもの。

こんばんは。

 

8月15日に、どうしても書きたいことがあります。

 

早朝からのお墓の掃除、そのあとの大事な仕事も終えて、やっとパソコンに向かいました。もらっているコメントへのお返事も、訪ねたいブログも、全部置いといて、それと、ほかにも書きたいと思ってあたためていることも、全部、今日は置いといて、どうしても書きたいことがあります。

 

***************

 

わたしたちが、奪っても、奪われてもならないもの。

 

それは、もちろん、いのちでしょう。

 

なのに、この100年ちょっとのあいだにも、地球上のどれだけの人間が、戦争のなかで、人間によっていのちを奪われたでしょう。

 

いろんな発明や発見は、人間のいのちを効率的に奪うためにすすめられてきたのかと思うほどです。

 

そして、いのち以外にも、わたしたちが奪っても、奪われてもならないものがある。

 

そのことを、頭では知っていました。心でも、ある程度は知っているつもりでいました。でも、そのことをさらに強く、深く、刻む映画に、この夏、出会いました。

 

韓国映画『マルモイ(ことばあつめ)』。

 


映画『マルモイ ことばあつめ』予告編

 

あらすじ

1940年代・京城(日本統治時代の韓国・ソウルの呼称)― 

盗みなどで生計をたてていたお調子者のパンス(ユ・へジン)は、ある日、息子の授業料を払うためにジョンファン(ユン・ゲサン)のバッグを盗む。
ジョンファンは親日派の父親を持つ裕福な家庭の息子でしたが、彼は父に秘密で、失われていく朝鮮語(韓国語)を守るために朝鮮語の辞書を作ろうと各地の方言などあらゆることばを集めていました。

日本統治下の朝鮮半島では、自分たちの言語から日本語を話すことへ、名前すらも日本式となっていく時代だったのです。
その一方で、パンスはそもそも学校に通ったことがなく、母国語である朝鮮語の読み方や書き方すら知らない。

パンスは盗んだバッグをめぐってジョンファンと出会い、そしてジョンファンの辞書作りを通して、自分の話す母国の言葉の大切さを知り・・・・。

 (公式HPより引用しました)

 

この映画のことを知ったのは、わたしが大事に読ませていただいているケンちゃん(id:kenessence)さんのブログ。

 

映画のポスター(チラシ)の下に、一行だけ、その映画についてのメッセージを載せてアップなさる、そのシンプルさとシャープさが大好きなのだけど、今回の「マルモイ」には、こんなことばが添えられていました。

 

母語は我々を束縛もするが、

同時に自由と存在意義を与えてくれる。

 

これは、絶対に観なくちゃいけない。そう思って、すぐに上映館を探しました。案の定、大阪では1か所だけ、しかも1日1回上映でした。でも、よかった。教えてもらって。ケンちゃんさんに感謝のコメントを入れ、翌日、観に行きました。

 

*******************

 

日本は、かつて朝鮮半島を植民地支配するうえで、土地を奪い、経済を乗っ取り、激しい暴力で屈服させようとしました。しかし、想定していたよりも烈しく粘り強い抵抗にあうなかで、さらに卑劣な弾圧を加えていきます。それが、民族のことばと名前を奪うことでした。

 

そのことが、どれほどの痛みを朝鮮に生きる人々に強いたかということを、ほんの少しは知っているつもりでいたので、この映画を観るのには勇気がいりました。「つらいけど、でも、観なくちゃいけない」。そういう気持ちで劇場に向かいました。お腹にぐっと力を入れて、ちょっと唇をかみしめるような気持ちで。

 

でも、観終わって、感じたものは、予想していたよりも、もっと大きくて、もっと温かくて、もっと懐が深い、そういうものでした。(もちろん、日本帝国主義が朝鮮のひとびとに何をしたのか、ということについては、あらためて、慄然とするものがありました。そこは、まったくもって、思っていたとおり、逃げ場がない、凄まじいものであったことは、言うまでもありません)それでも、「観なくちゃいけない」という義務感とか、使命感とか、そういうのじゃなく、ひとりの人間として、「観よう」、「ぜひ観てほしい」と、いま思っています。

 

**************

 

わたしたちが、母語を読めて、書けて、話せるということは、どういうことなのか。そのことを考えると同時に、たとえばアイヌのひとたち、たとえば沖縄のひとたちが、おなじ「日本語」のなかに括られていることを忘れちゃいけない。日本に暮らす、少なくない外国のひとたちが、その国の言葉を堂々と使えない、学べない状況にあることを「自己責任」にしちゃいけない。経済的な理由や、もっと複雑な事情から、「読み書き」を学べていないひとたちが、この日本のなかに、まだまだいること、それが再生産されていることを、わたしたちは、知らなくちゃいけないという思いが沸々とわいてきました。

 

映画のなかで、非識字者のまま朝鮮語学会の雑用係になったキム・パンス(わたしの大好きなユ・ヘジン氏が演じています)が、なかまの力添えをもらいながら、文字を一文字ずつ学びとっていくなかで、それまでただの模様にすぎなかった街の看板や、飲み屋の品書きが読めるようになり、うれしくてひとつひとつ読み上げるシーンがあります。そして、自分とおなじように、貧しさのなかで大切なひとを亡くしてしまう男性の物語を読んで、号泣するシーンがあります。文字が読めること、書けることが、どれほど世界を明るくするか、人間を人間たらしめるか。逆にいうなら、文字を奪うということは、どれほど人間を虐げることなのか、そのことが伝わってきて、泣けて泣けてたまりませんでした。

f:id:nonchi1010:20200815172738j:plain

f:id:nonchi1010:20200815172725j:plain

(どちらの写真も、映画公式パンフレットより)

 

そして、朝鮮のひとびとが、哀しいとき、空を見上げて、月を見つめて歌いたい歌は、もちろん朝鮮の歌であり、うれしいときに膝を叩いて出る言葉は朝鮮の言葉なのであり、おいしい朝鮮の食べ物の呼び名には、朝鮮の歴史が込められているのです。生きることと、ことばは、切り離すことができない。言葉は、いのち、なのだということを、深い感動をもって教わりました。

 

だから、わたしたちは、誰かのことばを奪ってもならないし、わたしたちのそれを奪われてもならない。

 

*************

 

8月15日という日は、受け止めるひとによっていろんな意味をもつ日だと思います。

 

日本にとっては、戦争に敗けた日です。わたしは「終わった日」という表現より、やっぱり、「敗けた日」を選びます。それは、戦争で命を奪われた人たちのことを貶めることではないと私は思っています。そして、「敗けた日」でも、どこか、言い足りない気はするのです。敗けたのは、誰だったのだろう。たとえば「勝った」としたら、わたしたちの国は、どうなっていたのだろう。戦争に、わたしたち市民(民衆という表現をすることに躊躇があり、かといって、国民とは言いたくなく、消去法としての呼称です)にとっての「勝ち」はあるのだろうか。国家の名の下に、大事な息子や、恋人や、夫や、父や、きょうだいが死ななければならない、誰かを殺さなければならない、その状況に「勝ち」はあるのだろうか、と思うからです。

 

でも、朝鮮の人びとにとっては、その日の意味は明らかです。

 

日本語を使うこと、日本の名前を名乗ることから解放された日です。堂々と、自分たちのことば(ウリマル)を大きな声で叫べるようになった日です。朝鮮のひとびとが、人間としての尊厳を回復した日です。それがどれほどの喜びであったかを、想像しながら、いのちも、ことばも、再び奪い、奪われることのないように、生きていかなければ、生きていこうと、思っています。