のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

あの日のおかんの意地。

こんにちは。

 

ものすごく湿度は高いけど、雨は降っていないみたいです。仕事場のデスクのそばの窓にはブラインドが降りてるので、空を一望することができなくて、隙間からちょろっと覗いて見ています。

 

おととい、シンプルそのもののクッキーを焼いたんですよね。バターと、卵と、小麦粉と、お砂糖だけのレシピで。形も極々シンプルに、真んまるとハート型の2種類。

 

お裾分けで、頑固一徹おかんにもちょこっと届けたのだけど、今朝のお弁当配達のとき、「いままでで一番おいしい」と言ってました。

 

あら、そうなの? もうちょっと手が込んだお菓子、作ったことあるけど、それよりも、これ? ちょっと意外でしたけど、ほんとに大層な気に入りようで、「どないして作ったん?」とキラキラ目で尋ねるおかんが、なんとも微笑ましかったです。

 

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最近、記憶って、どうやって呼び覚まされるのだろう、と思うのです。

もう40年以上も前のことを、ふと想い出すんですよね。

シンプルクッキーをやたらと喜ぶおかんを見ていて、ず~~~っと昔のおかんのことを、ふと想い出しました。

 

(これ、きっと長文コースです。)

 

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おかんはね、わたしが生まれてすぐ、仕事を再開して、その後、弟が生まれたときにちょっとだけ産休をとったぐらいで、定年までずっと働いていました。仕事のあとは、社会的な活動にそのまま駆けつける、みたいなひとだったので、私と弟は、もちろん鍵っ子。当時は土曜日も半日仕事をしていたし、日曜日は日曜日で、また活動の関連の勉強会やら、いろいろ、いろいろ、で、世間一般的な「親子の団欒」はあんまり経験していません。

 

家のなかも、そんなに片付いていなかったし、おかんが仕事と活動を終えて、大急ぎで帰ってきてから作る晩ごはんは、レパートリーも少なくて、「早くお風呂に入れて、寝かせないと」というおかんの焦りからでしょうね、「ゆっくり話しながら」みたいなのも、日常にはなかったと記憶しています。

 

ところで、おかんには5つぐらい歳下の妹(わたしにとっての叔母)がいまして。彼女は専業主婦で、我が家から子どもの足で10分ぐらいのところの、すごく立派な一軒家に夫さんと息子2人の4人家族で暮らしていました。

 

その叔母のおうちのそばに、ちょっとしたおかずとか、お刺身とか、お肉とか野菜を売ってるお店があって、「今日は遅くなる」とおかんが言った日は、わたしがそのお店で買い物をして、晩ごはん(もどき)を作るということを、小学校の高学年ぐらいからかなぁ、していたと思います。

 

そのお店から、歩いて1分もかからないところに住んでいる叔母は、たまにお店から出てきたところで「あ~、のんちゃ~ん」と呼んでくれることがありました。夕方の洗濯物の取り込みとか、庭のお花の水やりとか、そんなんだったのかな。そして「のんちゃん、ちょっとおやつでも食べて行き」と招いてくれることがありました。

 

「早く帰って、ごはんの支度しなあかん」と思う気持ちと、「やさしい叔母ちゃんとこで、おやつよばれたい」という気持ちの間で揺れて、時々、甘えて叔母ちゃんのおうちに寄らせてもらっていました。

 

叔母は、いまで言うところの「カリスマ主婦」的なひとで、当時はまだ一般的ではなかった、ガスオーブンのある、L字の広い広いキッチンで、ものすごく手の込んだおかずや、お菓子を作り、編み物、パッチワーク、刺繍、アートフラワー、あらゆる手芸をこなして、おうちをそれはそれはセンス良く飾って、ほんとに、わたしにとっては「別世界」のようなおうちと、「ほんとにこのひと、おかあさんの妹なんかな」と思うほどの叔母とおかんのキャラクターの違いが、いつも、うらやましくてたまりませんでした。同時に、自分がちょっとかわいそうな気持ちになって、叔母のおうちでおやつをいただいている間はすごく幸せだけど、「じゃぁ、そろそろ帰る」と言って玄関を出た途端に、なんでか説明のできない気持ちがこみあげてきて、泣けてきてしまうこともありました。(あ、なんだろ、いまでも泣けてきます)

 

あるとき、いつものようにお店で買い物をして、叔母の誘いに乗って、ちょっとおやつをいただいて、叔母が学校のあれこれの話などを聞いてくれたりしたのだと思います、いつもより長居してしまって、焦って家に帰りました。すると、帰りが遅いはずのおかんが、私よりも先に帰宅していたのです。

 

「あんた、なんで買い物にそんなに時間がかかるん?」

 

「・・・・・」

 

咄嗟の受け答えができず、黙っているわたしに、おかんは畳みかけてきたんです。

 

「あんた、〇〇おばちゃんとこに行ってたんやろ?」

 

「・・・・・」

 

「どうなん?行ってたんやろ?」と問い詰められて、「うん」と答え、「わぁ、もしかしたら叩かれるんちゃうか」と身構えたわたしの前で、おかんは、なんと泣き出したんですよ。泣きながら、言ったんですよ。

 

「〇〇おばちゃんのとこには行かんといて」って。

 

わたしは、おかんのことがどうのこうのより、「あぁ、もう叔母ちゃんとこに行かれへん」と思って泣きました。そして、それからは、それこそ高校生になるぐらいまで、行かなかったと思います。おかんに怒られるから、です。

 

叔母は、わたしがおっきくなってからも、ときどき当時の想い出ばなしを私としながら泣いていましたけど、「わたしがあんたを誘ったら、泣きそうな顔をしながら『おばちゃんとこには行かへんねん』と言って、わたしと目も合わさずに帰っていった」わたしだったのです。

 

そのことを、わたしはずっと、「なんてかわいそうなわたし」と「なんて厳しいおかん」と思ってきました。それは、おとなになってからも、かなり長いこと思っていたと思います。

 

でも、自分が相棒ちゃんの母になって、おかんの足元にも到底及ばないけれども、それなりにいろんなことがあるなかで、あのときのおかんの涙について、想い出すことがありました。

 

そして、ふと思いました。

 

「泣きたかったのは、むしろおかんのほうだったんやな」と。子どもとあったかい食卓を囲みたくないと思っていたわけじゃない。いつも鍵を開けて暗い家に子どもが帰っていくことを平気でいたわけじゃない。仕事と、自分のポリシーゆえのいろんな活動と、そして母親であることのなかで、おかんも毎日葛藤していたんだよな、と。

 

それでもおかんは毅然としていましたよ。「わたしはあんたらのおかあさんだけをやって生きてるわけじゃないから」と言ったのも鮮明に憶えてるもの。そのことを、理解しなくちゃいけないんだろうけど、やっぱり寂しかったし、恨めしかったし、そして中学生のときにはムカついたし。だから中学生のときは、ちょっと今思い出しても申し訳ないぐらいのフリョーでした(笑)。「あんた(おかん)がそうなら、こっちだって」っていう反発、ね。

 

そういうものも経て、でも、あるとき、ほんとにフッと、おかんの涙の意味を、想像できるようになりました。「〇〇おばちゃんのとこに行ったらあかん」と言ったのだって、そうしないと、自分も糸が切れてしまいそうだったんだろうなって。それが、おかんのギリギリの意地やったんやろうなって。

 

当時の叔母に比べたらシンプルすぎるレシピのクッキーだけど、わたしがおかんにクッキーを作ってあげて、おかんがそれをあんなに喜んで、それをちゃんと言葉にしてる…。そのやりとりのなかで、ふと想い出した、ずっと前のこと。あんなに腹が立ったし、寂しかったし、悔しかったし、恨めしかったけど、でも、仕方なかったよな、と思います。

 

そのことを経験して、わたしは「相棒ちゃんにこれだけはしたくない」と思うこと、「これだけはしてあげたい」と思うことがある。それでいい。再生産してはいけないことと、あの日のおかんの意地を受け止めて相棒ちゃんと暮らしていくことと、両方とも、わたしには、大事な大事な財産だと思っています。

 

一時は、きっと、想い出したくもないことだったのだけど、いま、当時のおかんよりも歳を重ねて、そして人生後半戦に入って久しいおかんを見ていて、ちょこちょこと、こんなふうに、記憶の整理というのか、捉えなおしというのか、再確認というのか、そういうことを、ときどきするようになりました。

 

これ、大事なことなんだろうな、と思っています。

 

そして、あたまにふっと浮かぶことはあっても、こうして書き残すことって、自分ひとりでは、なかなかできない。それをさせてくれる、この場所に、きょうも感謝をしています。

 

読んでくださるみなさん、ほんとにありがとうございます。

 

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