のんちのポケットに入れたい大切なもの

「みぃつけた!」な音楽、もの、ひと、ことばを綴る日記帳

焼き茄子は、誰にも食わすな。

今日も相棒ちゃんは学校のあと、そのままバイト。

閉店までがんばるらしいので、夕飯も「いらないです」と。

おまけに「今日は”まかない”で餃子丼(白ごはんの上に焼き立て餃子をのせて、タレをかけていただくらしい)が出るから、めっちゃ楽しみ」と言うてました。

 

仕事から帰ったら、何もしたくないんだけど、でも、ひとりのときにテキトーなことをすると、突然侘しい気持ちになったりするので、今日はちゃんと作りました。

 

先週末に新鮮な茄子を買っといたので、わたしの一番好きな茄子料理を、わたしだけのために。

頑固一徹おかん直伝の焼き茄子は、コンロに網をのっけて、そこで直接焼く、ワイルドなやつ。

 

これを「焦げる」手前のところで火からおろすのがポイント。

 

今回は非常にうまくいきました。

 

 

・・・焼き茄子が主役の文章なのに、一番向こうに置いてしもた。

 

けっこうめんどくさい焼き茄子、相棒ちゃんには人気がない。

せっかく作っても、「やった~~~!!」という反応がないと、作り甲斐がないってもんです。

 

だから、焼き茄子は、誰にも食わさない(笑)。

 

自分のためにだけ、「熱っ、熱っ!!」と言いながら、ちょっと焦げた皮をきれいにむいて、かつお節とおしょうゆをかけていただくのが最高。

 

 

あとは、ちょっと甘いものでも食べて、お風呂入って、寝ます。

 

 

もう、いまは、それでいいんだ。

 

 

とにかく、明日も働く。

 

 

それで十分。

 

 

それで、いいのだ。

おっちゃんの居場所。(長くてヘビー)

新型コロナの感染拡大が止まらない。ベッドサイドからスタッフが1人欠け、2人欠け…、その人たちの復帰を待たず、次の感染者が出て、「あと一人陽性者が増えたら、もう現場はまわりません」というリーダーからの報告が何日続いているだろう。欠員が出るたびに、リーダーは勤務表とにらめっこして、「誰の穴を誰が埋めるか」のパズルをするのだけど、そのパズルをしている最中に、次の「わたしも熱出てきました」の電話が入ってくるような状況。おまけに、検査のキットの品薄が続いていて、迅速に検査して「白黒」つけることもままならない。

 

これ、第7波にもなって、おかしくないか?

 

現場が何に苦労しているか、何を必要としているか、まったくわかってないし、わかろうとも思ってないよな、とげんなりする。ただでさえ疲れているけど、この国の政治の無策ぶりにまともに向き合うと、本当に、医療現場で働く心が折れてしまう。

 

どこまで続くのか。

 

どこまで、やれるのか。

 

自分のこころとからだの「おきどころ」をちゃんと考えないと、真っ黒い波に呑み込まれてしまいそうになる。

 

血も涙もないような連中のせいで、彷徨うことは、したくない。

 

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仕事の日は、たいてい夕方の渋滞に巻き込まれながら、小一時間運転して家に帰るのだけど、道中はラジオを流している。集中して聴くというよりは、なんとなく聞こえてくるぐらいのかんじが頭のリセットにはちょうどいい。

 

少し前、そのラジオで著者も出演して紹介された本の「帯」のことばに心を持っていかれた。

 

一刻もはやく、

兄を持ち運べる

サイズに

してしまおう。

 

その本のタイトルは『兄の終い』、著者は翻訳家でエッセイストの村井理子さん、初めて耳にするお名前だった。わたしの家には、本棚からはみ出すぐらいの「積ん読」状態の本があるのだけど、それでも、この本は「今すぐ読みたい」と思った。

 

家には帰らず、近くのイオンの大きめの本屋さんへ直行して探してみたけど「在庫なし」。諦めきれずに少し離れたもう1つの本屋さんにも寄ってみたけど、やはり「在庫なし」。仕方なくネットで注文して数日待った。

 

届いた日はちょうど相棒ちゃんがアルバイトで帰宅が遅かったので、夕飯を適当にすませて、ひとり、静かな静かなリビングでページをめくった。

 

著者の体験が、そのまま自分に重なって、ものすごい勢いで読んだ。翌日、日帰り出張から帰る電車の中と、電車を降りてからの喫茶店で最後まで読み切った。途中、電車のなかでも、喫茶店の席でも、静かにたくさん泣いてしまった。

 

著者の体験に重なった、自分の体験・・・。

 

それは、わたしの叔父の「終い」。

2015年、いまから7年前の7月のおはなし。

 

沖縄のアパートでひとりで亡くなっていた叔父と、わたしと、相棒ちゃんと、頑固一徹おかんの、おはなし、だ。

 

ものすごく長くなるし、ものすごくヘビーな内容だし、そしてきれいにはまとまらないのだけど、これ、いま書かないと、と思って。

 

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あの日、わたしにも、唐突に電話がかかってきた。

ちょうど訪問看護を終えて事務所に戻ってきたところだった。

わたしの場合、電話の相手は警察ではなくて頑固一徹おかんだった。

 

「〇〇(おっちゃんの名前)がな、ヘルパーさんが家にいったら亡くなってたんやて」

 

おかんのそのひと言を聞いたところからの、わたしの動きは、まさに『兄の終い』の展開のまんまだった。

 

「明日からお休みさせてください」と職場にお願いして、その日のカルテを書き上げて大急ぎで帰宅して、おかんと相棒ちゃんとわたし、3人分の飛行機チケットとホテルをネットで確保して、翌日沖縄に向かった。レンタカーを借りて、警察に行って、事情の説明を受けて、おっちゃんに対面して、火葬の手配をして、アパートの片付けの段取りをして、火葬して、お骨を拾って、「できるだけおっちゃんをちっちゃくして大阪に帰る」ことをやり遂げるために2泊3日、走り回った。

 

『兄の終い』には、心強い同志が登場するけど、あの時のわたしは、相棒ちゃんと、おかんを、上等なホテルに送り届けて、あとは全部ひとりでやった。おかんの上に、一番上の姉さんがいるのだけど、彼女は心臓が弱いこともあって、「終わったら報告するから」と説得して沖縄にも連れて行かなかった。「わたしがちゃんとやるから、おばちゃんは家で待ってて」と電話したら、おばちゃんは電話の向こうで声を震わせて泣いていた。

 

おっちゃんの遺体に対面するのも、おっちゃんのアパートの中を確認するのも、全部ひとりでやるしかないと思ったのは、7月の暑い沖縄を、歳をとり始めて、しかも思いがけず弟を亡くしたおかんと、しっかりしてると言うものの、まだ小学生だった相棒ちゃんを連れて移動してまわることの大変さだけでなく、見るものが恐らくとてつもなくショッキングだと想像できたから。それをおかんにも、相棒ちゃんにも見せるわけにはいかないと思ったから。そして、多分、おっちゃんも「のんちゃんだけに頼む」と思ってる気がしたから。

 

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生前のおっちゃんは、何十年も前に妻と子どもを置いて出て行って、あるときはパチンコ屋さんの住み込みで働いたこともあったようだけど、ほとんどホームレスになっていた時代も長くて、最終的には、沖縄の離島に流れ着いて、そこの駐在所のおまわりさんが、「このひとは様子がおかしい」と気付いてくれて、捜索願いを出していたおかげで、おかんのところに「弟さん、生きておられます」の連絡が来た。

 

見つかってから、おっちゃんは一時大阪に戻ってきたけど、おっちゃんが出て行ったときに残した借金を肩代わりしたおかんも含め、3人いる姉たちに散々悪態をついて、また沖縄に帰っていった。

 

そこから20年近く、おっちゃんは沖縄でひとりで暮らしていた。自分と同じような精神疾患をもつ人たちの入居施設の職員をやったりもしながら、でも、苦労がたたったのだと思うけど、ある時を境に、一気に歳をとって、か細くなった。

 

「亡くなった」と連絡を受ける1年ぐらい前には、路上で倒れていたところを通行人が救急車を呼んでくれて、病院に運ばれてICUに入院した。そのときも、夜に沖縄の病院からおかんのところに突然電話がかかってきて、「危険な状態だから、できるだけ早く病院に来てください」と言われておろおろしているおかんを引っ張って、なんだか旅行気分ではしゃぐ相棒ちゃんを連れて沖縄に飛んだ。静かに覚悟しながら入ったICUのベッドにちょこんと座って「あぁ、遠いとこ、すまんね」と言ったときの、いかにも「末っ子の長男」っぽいおっちゃんの笑顔は、いまでも憶えている。「心配かけといて、その軽い感じは何やねん」と突っ込みたくなったもんだ。

 

その入院のあと、心配するおかんの「代行」で、相棒ちゃんを連れて何回か沖縄におっちゃんを訪ねて行った。1回は、おっちゃんが大阪に来て、うち(当時、頑固一徹と相棒ちゃんとわたしの3人で暮らしていた)にしばらく滞在した。今思えば、その頃には十分体調が悪かったはずだけど、相棒ちゃんがせがむプールやら遊園地につきあってくれて、一日たっぷり遊んで帰ってくる、なんてこともあった。おっちゃんが沖縄に戻ってからも、1,2回はわたしと相棒ちゃんで沖縄に遊びに行った。

 

最後に沖縄におっちゃんを訪ねたとき、お盆過ぎの静かな海に3人で遊びに行った。他に誰もいない静かな海で、相棒ちゃんはいつまでもしつこくチャプチャプと浮き輪につかまってうれしそうに泳いでいた。

 

「今日はおっちゃんがおごるわ」と言って、海辺のカフェでホットドックやら、コーラやら、フライドポテトやらを買って3人で食べた。帰り道の夕飯も「豪勢にいこか」と言ったので「あんまりお金遣わんといて」と心配したら、おっちゃんが連れて行ってくれたのは、おうどんや丼を出す全国チェーンのお店で、そこの「天ぷら定食」をものすごく誇らしげに頼んでくれた。お値段はみんなあわせても3000円するかしないかぐらいで、だけど、おっちゃんにとっては、この「天ぷら定食3人分」は、ものすごく豪勢なディナーだった。そこから想像するおっちゃんの日常に、その日の夜、こっそりポロポロ泣いた。

 

そのあと、行こうと思えばもう少し行けたけど、些細なことでおっちゃんに腹が立って、生きているおっちゃんに会ったのは、あれが最後だった。

 

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ちっちゃいときも、ほかのいとこたちよりなぜかおっちゃんにかわいがってもらって、おとなになってからも、そんなふうに、親族のなかで唯一おっちゃんと交流したわたしだったから、突然に死んでしまって、見られたくもない荒れたアパートの部屋に踏み込まれるとしたら「のんちゃんが一番ましやな」と思ってる気がしたのもあって「買って出た」役だったけど、そりゃ、恐ろしかった。ドキドキするなんてもんじゃなかった。だけど、やらなきゃ終わらなかった。誰かがやらなきゃいけなかった。村井さんが書いてらっしゃったとおり、泣いてる暇なんてなかった。ただ、おっちゃんの遺体に対面するときだけ、全身が震えて、同席してくれた警察の方に「どうしても見なくちゃいけないですか? わたしの叔父に間違いないんです。それだけじゃだめですか?」と泣いてお願いした。でも、当然のことながら、「お辛いけど、どうしても直接ご確認いただかないとならないんです」と言われて、そのようにした。想い出してみるけど、きっと、泣いたのは、あのときだけだった。もちろん、おかんと相棒ちゃんは、ホテルにいたので、なんにも知らない。

 

おっちゃんのアパートの片付けは、2泊3日ではどうにもならず、それと、その片付けにひとりで挑む根性がどうしてもなくて、電話で探した「遺品整理」の業者さんにお願いした。代金はそれなりにしたけど、でも、とても丁寧な対応と、いくら仕事といっても、やってもらう内容を考えたら、それは妥当な金額だったと、いまでも思う。

 

それにしても、葬儀屋さんも、火葬場のひとも、沖縄でお世話になったひとたちは、みんなやさしかった。ことばをたくさんかけてもらったわけではなく、本当に、黙っていても伝わってくる「いたわり」があった。「お骨拾い」までは、本当にスムーズであっという間だった。

 

おっちゃんは、この時点で、もちろん、ものすごくちっちゃくなっていたわけだけど、もうひとつ、おかんと相談して決めたことがあった。それは、もはや時効だと思うので、そのまま書くのだけど、「沖縄の海に、おっちゃんを返してあげよ」ってことだった。正式に、船を頼んでの「散骨」ではなく、おっちゃんが相棒ちゃんと最後に遊んでくれた海に、返してあげようということだった。おっちゃんは、いろんな挫折があって、その昔、家族を置いて家を出て行った。とのときから、「家」というものに、あるいは「親きょうだい」というものに、縛られたくなかったんだと思う。想像もできない孤独に苛まれたこともあっただろうけど、それでも、最後まで沖縄での一人暮らしを貫いたのも、わたしはそういうことだと思っていて、おかんも、「死んでしもてから、いろんなしがらみのある『一族』のなかに戻すのは、かわいそうや」と言った。大手を振ってできることではないけど、でも、それが一番おっちゃんらしい『終い』じゃないかと思ったので、沖縄での最後の1日に、それをしてあげるつもりだった。なのに、何ということか、おっちゃんが火葬場に移動したあたりから、スコールみたいな大雨になった。なんとかギリギリまで天気の回復を待ったけど、車を運転するのも恐いほどの雨足で、とても海に近づけるような状況ではなかった。

 

「わたしと〇〇(相棒ちゃん)でもう1回沖縄に来るわ」とおかんに提案した。おかんは、「何回も、あんたばっかりにしんどい思いさせて、それは申し訳ない」と言ったけど、これこそ、わたしと相棒ちゃんの仕事だと思ったから、おかんを説得して、おっちゃんのお骨をボストンバッグに入れて、飛行機で大阪に戻った。

 

7月が終わって、少し肌寒くなりかける頃に、相棒ちゃんとわたしで、おっちゃんの『終い』を完結させた。おっちゃんが遊んでくれた海に、相棒ちゃんとふたりで行って、静かな波がザザザッときて、帰っていくタイミングで、波におっちゃんを連れて行ってもらった。相棒ちゃんはどう思っていたのだろうか。ふたりとも泣いたりはしなかった。ただ、丁寧に、波におっちゃんをお願いした。その『終い』の前に、おっちゃんの一番上の心臓の弱い姉さんに、おっちゃんのお骨を素敵な天然木の箱に入れて、手渡してきた。いかにも長女らしい、責任感の強いおばちゃんだから、末っ子の弟のことを大事に思っているのは黙っていてもよくわかっていたから。

 

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そうやって、やり終えた『終い』のあと、おっちゃんのお骨が入っていた白い壺を、どうしていいかわからなかった。棄てることもできず、かといって、白い壺はあまりに生々しくて、誰の目にも触れさせたくなくて、わたしはずっと押し入れのおかんの蔵書の山のなかに紛れ込ませていた。忘れていたわけではないけど、想い出すこともまた、していなかった。

 

だけど、『兄の終い』の最後の、お兄さんのお骨のことに触れているくだりを読んで、わたしのなかにあった、おっちゃんにまつわるいろんなものが、一気にメキメキと、心のなかに現れた。

 

「おっちゃんの居場所をつくろう」。

 

いままで考えたこともなかったけど、わたしや相棒ちゃんがわちゃわちゃと日々の暮らしを営む、その一角に、仏壇なんかじゃなく、もっと自然な、おっちゃんの居場所をつくろうと思い立った。

 

そこから数日、めっちゃがんばりました。

 

そして、できた、おっちゃんの居場所。

 

 

わたしの大好きな台所のすみっこ。

すみっこだけど、隅じゃない。

 



珈琲が好きだったおっちゃん、昔はデザイン事務所をかまえて、ちょっとカッコよかったおっちゃん、末っ子の長男で、母親からもきょうだいからも大事に大事に想われていたおっちゃん。

 

いかにも仏壇、みたいじゃない、この場所のこと、きっと気に入ると思う。

 

相棒ちゃんに、「こうしようと思うねん」と伝えたら、「ええやん、それ、めっちゃええやん。おばあちゃん(頑固一徹おかん)、きっと喜ぶで」と言っていた。わたしもそう思う。まだおかんには知らせてないけど、そのうち、報告するつもり。

 

 

1冊の本との出会いが、こんなことにつながった。

 

 

おっちゃんの居場所と、おっちゃんを海に返した「あの日のわたし」をほめてあげる場所。

 

 

この先の人生を、きっとおっちゃんも応援してくれる気が、するんです。

 

 

ひもじいことは、哀しいこと。

昨日、久しぶりに頑固一徹おかんの家を訪ねて、あれこれ話しながらお昼をよばれた。「明日は久しぶりにお弁当を入れたるわ」と言ってもらい、今朝、出勤途中に待ち合わせをして、朝刊と手作りお弁当を「物々交換」した。

 

最近、仕事で「これでもか」というほどいろんなことが起こる。ある程度想定できるものから、「え、そんなこと、ある?」と言いたくなるようなことまで。「今日は何もなかったな」と思える日を、随分長いこと経験していない気がする。

 

そんな状況だからなおさら、「お昼」は本当に大切なひとときだ。

 

「お弁当を入れてあげるのに、寝坊したらあかんと思うと、眠れないときの睡眠導入剤もおちおち飲めないので、ちょっとお弁当はお休みしたい」とおかんに言われてからしばらく、自分でお弁当を作っていたけど、そりゃ、誰かに作ってもらったお弁当の蓋を開けるときのうれしさは、格別ですね。

 

今日のおかんのお弁当、いつにも増して豪華。

 

おかんは「食べること」を本当に大切にするひと。

 

その理由は、「食べるのが好き」っていうのはもちろんだけど、もうひとつ、大切な大切な理由がある。

 

「ひもじいことが、どんなに哀しいことか。食べるもんがないことが、どんなに情けないことか。だから、ちゃんと食べられるいま、食べることを疎かにするわけにはいかんねん」。

 

 

おかんは1940年生まれ。4人きょうだいの上から2人目。両親は大阪市内で古本屋さんを営んでいたけど、空襲がひどくなり、おかんの母方の実家がある、大阪のなかでも田舎の村に引っ越した。その引っ越しの直後、大阪におおきな空襲が来て、古本屋さんがあったところは、一面焼け野原になったと、おかんは言っていた。

 

母方の実家があるといっても、「一切助けてはくれへんかった」そうで、親戚の大きな家の納屋みたいな6畳一間に親子6人で暮らしたそうだ。お風呂はもちろん「もらい湯」で、白いお米なんて食べられるはずもなく、「なんば粉」(とうもろこしの粉かな、とおかんの記憶)を蒸しただけのものを、来る日も来る日も食べていたんだそうだ。それを親せきから「〇〇の家からはいつも臭いにおいがする」と笑われて、ものすごく屈辱的だったとも。

 

8月15日のことは、ほとんど記憶にないそうだけけど、ただ、「これでもう、ひもじい思いをしなくて済むのかな」と思ったのだけは憶えていると言っていた。

 

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そんなふうにして迎えた「戦後」。

 

だけど、ひもじさは、その後もかなりの間、おかん一家だけでなく、周りの貧しい家々につきまとっていたという。

 

そんななか、おかんが「あの光景は死ぬまで忘れへん」という日が来る。

 

ある日、大阪市内から、裸足で、真っ黒に汚れた下着みたいな服を来て、遠い遠い親戚の子どもがきょうだい2人連れでおかんの家に辿り着いた。

 

ガリガリに痩せこけて、目だけギラギラして、誰かわからないぐらいだったその2人は、おかんのおかん(つまりわたしの祖母)に「おばちゃんとこにおいて」と懇願したそうだけど、おかんのおかんは、当時やっと食べられるようになっていた麦の混じったごはんをおひつが空っぽになるまで食べさせて、そして、2人のことを見送ったそうだ。

 

おかんいわく、

 

「夕陽に向かって、来た道を2人でとぼとぼと歩いていく姿を、わたしは死ぬまで忘れへん。なんで追い返したんやとおかあちゃんに詰め寄ったら、『あの子らを引き取ったら、あんたらに食べさせるもんがなくなる。だから追い返すしかなかったんや』と泣きながらおかあちゃんに言われた。きっと、あの2人は途中で死んでしもたと思う。だけど、そうするしかなかったんや。ひもじいことは、哀しいことなんやで。戦争っていうのは、それほどにえげつないもんなんやで」と。

 

戦争で亡くなるということには、戦争に敗けた後も、こんなふうにして、ひもじさのなかで、誰にも甘えることもできずに、孤独に命を落としていったひとたちのことも含まれると思う。どんな勇ましいことばで飾り立てようと、戦争で亡くなるということは、そういうことなんだと、私たちは、しっかり「記憶」しなければならないと思う。年月の経過とともに、ひとつずつ減っていく、その「記憶」を、ひとつでも多く、引き継いでいかなければならない。

 

 

おかんのおいしそうなお弁当を前にして、あらためて、強く、強く、そう思った。

 

 

 

 

いろいろありすぎて。

相棒ちゃんがコロナになって、濃厚接触者として仕事から数日離脱して、戻ったところから、それはもういろんなことがありすぎた。

その間、頑固一徹おかんとほとんど会話らしい会話ができなくて、今日、ようやくおかんのところに顔を出している。

もとは「どっかにドライブでも行く?」と誘ってみたけど、「あんたがうちに来て、なんやかんや喋ろ」と言われたので、そのようにした次第。

お昼も上げ膳据え膳。

なんということはない、雑談ばっかりやけど、なんか、沁みますわぁ。



だいぶ疲れてたんやなぁ、わたし、と思います。

明日から、仕事。

この前の火曜日、仕事中に相棒ちゃんからメールがきたのが「こと」の始まり。

 

「おかあさん、解剖学の試験受けてる途中からしんどかってんけど、検温したら37.8℃あって、すぐ帰らされた。家で寝てます」と。

 

あ、とうとう来たな、と思った。電車通学だし、バイトもしてるし、友だちとも会ってるし、そりゃ、もう逃れようがないわ。

 

限りなくコロナが疑われるので、私は当然ながら暫定濃厚接触者となり、つまり、わたしも「すぐ帰ってください」の対象となって仕事を急いで片付けて、早退。

 

帰宅したらすぐ、相棒ちゃんを「家庭内隔離」へ。もともと一緒の部屋で寝ていたのだけど、わたしはリビングへ布団を運んで2Fと1Fに分離した生活スタート。

 

そうこうしているうちに、相棒ちゃんの熱が39℃台に上昇。アイスノンやら、水分やらを部屋に届けるのにもマスクをして、出てきたら手の消毒をして、アイスノンも消毒して、洗濯物は別にして、解熱剤を飲ませて、時々声をかけて・・・・・

 

翌日、かかりつけ医の「発熱外来」をネット予約して、予定時間を大幅に過ぎてからやっとドクターから電話があり、「おかあさん、ちょっとえらいことになってんのよ、もう、数がとんでもないんよ。PCR検査、最短で明日のお昼からの検体提出になるわ、ごめんやけど、家でゆっくり寝かせておいてあげられる?お薬だけ出しとくから、取りに来て」と。わたしが医療従事者だと知っているので、「心の声」みたいなのも含め、ドクターはダダダっと一方的にまくしたてて、わたしは相棒ちゃんの症状をちょこちょこっと報告した以外は、「はい」「はい」「了解」ぐらいの電話診察。

 

そのあと車でお薬とPCR検査の検体入れを受け取りに行って、診察の内容を相棒ちゃんの学校と自分の職場に報告して、忘れていた自分の食事を摂って、あっという間に1日が終わった。

 

その後、今日までの相棒ちゃんは、熱と喉の痛みはあるものの、これが彼女の逞しさだと思うのだけど、食べたいものをしかとリクエストしてきて、部屋に投入したミニ冷蔵庫の中のゼリーや茶碗蒸しや、ジュースもご立派に召し上がり、それ以外は「ちゃんと生きてるよな?」と心配になるほど爆睡して、重症化することなく過ごし、忘れた頃に「コロナ陽性でした」の結果報告をもらい、二人で拍子抜けして笑ってしまった。

 

わたしのほうは、家庭内感染の兆候はなかったけど、仕事を休んでいるとは思えないほどの疲労感で、別の意味で調子が悪かった。

 

家族に病気のひとがいるっていう経験をほとんどしたことがないせいもあると思うのだけど、やたら疲れた。

 

こうなる前は、「もし濃厚接触者で休むことがあったら、家の掃除、がんばっちゃおう」なんて夢見ていたのだけど、とんでもなく、そんな元気はありませんでしたわ(笑)。

 

で、仕事もいろいろ気になってくるし、職場の感染対策のリーダーとも相談して、5日間の自宅待機を経て、明日、出勤時に検査をして陰性なら、そのままお仕事再開の運びとなった。相棒ちゃんは、ちょうど夏休みに突入したこともあり、まだ自宅療養という名の「外出禁止」が続くのでありました。

 

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これは、ほんと、不謹慎な「心の声」なんですけども。

 

看病ともいえない程度の看病だったのだけど、5日間なんてあっという間でした。普段、5日休めるなんて、夢のまた夢なのに、なんだったんだ、ってかんじ。

 

なので、最終日の本日は、朝から突如、何かせずにいられない感じになりまして・・・。「そうだ、障子紙張り替えよう」などと思い立ってしまった。あまりにも、なにもしてなさすぎる自分が、我ながらちょっと悔しくて(笑)。

 

 

お恥ずかしいハナシですけど、相棒ちゃんが保育園のとき、おもしろがって障子紙に「プツプツ」っと指で穴を開けてから、かれこれ10年以上、障子紙をほったらかしにしてました(笑)。

 

もとの紙を剥がすところで思いのほか手間取ってしまい、本日時間切れ&根気切れ。

 

その代わりと言っちゃ何ですが、ミシンをダダダとちょっとだけ。

 

 

ずっと前にいただいた浴衣をほどいて布巾を量産。薄いあずき色のワッフル生地は、バスタオルとして売っていたものを10枚に切り分けて「台所のお手拭き」に。いろんな色を使うと、相棒ちゃんが布巾で手を拭いてたり、お手拭きでお茶碗を拭いてたりするので、一目でわかるように柄や色を統一してみた。あと、台所のお手拭きは、大きいタオルにしてしまうと、ごく一部しか汚れてないのに、洗濯のボリュームがかさむのがずっと気になっていて、一旦コンパクトなお手拭きサイズでやってみようと思う。

 

その他にも、洗面台の掃除、洗濯機の防水バン周りの掃除など、地味だけどずっと気になってた用事をいくつか片付けた。

 

駆け込みラストスパート、なかなかがんばったやん。

 

明日、寝坊しませんように・・・・・!!

国葬反対の意思表示。

「国葬反対の意見は認識していない」なんて言われて、黙っていたくない。


わたしは、はっきり反対です。


さきほど、smokyさんの記事へのコメント欄で、uwisizenさんがリンクを貼ってくださっていたので、署名しました。


https://chng.it/pCqgzLp4MX

急ぎ、シェアします。



一休さんは「慌てない慌てない、ひと休みひと休み」って言ってたけど、いまは、ひと休みしてられない。

悼むかどうかは、自分で決める。

いやな予感はしていた。


そして、やっぱりかと、ものすごく悔しい。



国葬って。

それはあんまりではないか。

悼むかどうかは、自分で決めればいい。



国葬って。

誰のお金をつかうつもりなのか。




「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」。

その言葉の実践のカタチが、彼の国葬って。



混同と、すり替え、甚だしい。



わたしは、彼から謝罪も、償いもされなかったひとのことをこそ、あらためて、悼みたいです。